タイトル | 評価 | 一言メモ |
リリィ・シュシュのすべて | うな | 企画の先進性は良い |
リリィ・シュシュ、という架空のアーティストのファンサイト掲示板を舞台に、その書き込みによってすべてが語られるという実験小説。 実際にこの掲示板はインターネットに用意され、作者がいろんなキャラになりきってそこに書きこみしていく、という形で連載されていたらしい。しかも誰でも実際に書き込むことが出来たとか。へーーー。知らんかった。 ストーリー自体は、掲示板におけるくだらない言い争いを契機に、過日に起きたライブでの殺人事件に話が及んでいくのが前半。後半は犯人による長い自白になっている。 インターネットの仮面性と錯綜を描く前半は面白かったのだが、いじめの連鎖や少女売春などの中学生問題を描いた後半は、わりとどうでもよかった。 なんかそのどうでもよいと感じている自分がちょっと淋しかった。昔だったらもっと反発してたような気がするんだけど、なんかどうでもよかった。ちなみに映画版は後半部分がメインになっている。 リリィ・シュシュという電波チックな歌手に勝手に自己を投影し、「エーテル」という単語で仲間を峻別して、自己を傷つけるそれ以外のものを排除するファンたちの姿は、特定のアーティストを信奉する人間は排他的で盲目的で頭の悪い人が多いという意味でリアリティはある。 その因として、過剰防衛の先にある攻撃性だということを、犯人といじめ問題により描いているのだろう。そしてそれが連鎖しているものであり、多くの人間がその連鎖のうちにあり、不安でならないのだと、そういう話なのかな? リリィ・シュシュ自体は一度も作中に姿を見せず、本人の言葉も一言たりとも出ていないのにタイトルが『リリィ・シュシュのすべて』であるのは、そういった狂信の先にある実像を無視した偶像崇拝こそが、願望を背負ってしまったアーティストの「すべて」であるということなのだろう、きっと 着眼点はすごいし、実験的であると思うし、ここに共感を抱く少年少女は多いとは思うのだが、しかしやはり共感のまったくできなかった自分にとっては「うまいことやったなあ」と思う他人事でしかない。 ブサイクでいじめられっこの主人公を映画ではイケメンがやってたりするあたりのいけすかなさが気にくわないのだろうか? なにかこう、岩井俊二の描く不安感とやらがまっくた心に届かないのです。 根底として「なんだかんだいって人は生きていく」とおれは思っている。無様をさらしてどんなに惨めになっても、人は生きていく。 岩井俊二の世界はなんだかあっさりオシャレに死ぬので、ピンと来ない。偽メンヘラ特有の死ぬ死ぬ詐欺的なかまって症候群にしか見えない。 とはいえ、ある人物の死を示唆して終わるこの物語も、結局その死を確認するすべはないままだ。その言葉もすべて掲示板の書き込みでしかない。メンヘラの「云ってみただけ」をも表現しているのかもしれない。 そう考えると言下に否定するのも野暮なのかもしれないが、そのどっちつかずな態度がこれはこれでむかついたりもする。 要するにおれは岩井俊二から漂うオシャレメンヘラ臭が嫌いなのだ。嫌いなものは理屈なく嫌いなのでしょうがない(じゃあ観るな読むなという話ですね、わかります) それにしてもこのリリィ・シュシュという架空のアーティスト、要するにcoccoなんだろうか? 「家族に性的虐待を受けた少女の狂気と再生」としか読み解けない楽曲で大ヒットしたcoccoは、よく考えずとも異常な存在だったよなあ。としみじみとした。 (08/12/22) |