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皆川博子

タイトル評価一言メモ
死の泉うな正統派変態小説





  死の泉  うな

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)
皆川 博子
早川書房





長編耽美ミステリー

1940年代、ドイツ。
第二次大戦の最中、ナチスは民族浄化のために一つの施設を建てる。
レーベンスボルン(生命の泉)と呼ばれたこの実在の施設は、ドイツ国民の総アーリアン化を目指し、時には誘拐などの強引な手段をも用いて、アーリア人の育成・出産を奨励していた。
悪化する不況の中、アーリア人の私生児を産むことになったマルガレーテは、故郷を出てレーベンスボルンに頼ることになる。
そこで施設の高官である博士、クラウス・ヴィッセルマンに見初められた彼女は息子のためにクラウスと結婚することになる。
クラウスの養う二人の少年フランツとエーリヒと共に、豪奢ではあるが不穏な毎日の中、無事に男児を出産するマルガレーテ。しかしドイツ敗戦の日は確実に近づいてきていた。
やがて終戦が訪れ、十五年の月日が流れた……

なんつうか、非常に評価に困る。
まず、文章がうまい。端正な文章とはこういうものを云う。
単語の一つ一つ、句読点の一つ一つにまで作者の意思が通っている。どれほどの天才であろうとも才能だけでは真似できない、深い知性と豊穣な経験のみが生み出せる文章だ。
この本は1997年に出版されたものだが、その時点で皆川博子の年齢は六十を大きく越している。その生の長さを思わせる、丹念な文章だ。それでいて抑えた筆致の向こうに、揺るぎない情熱がうかがえる。
このバランスは、女性作家ならでは。男性作家がこの歳になっても書けば、どうしても生臭く勢いのあるものか、枯れたおとなしいものになってしまうだろう。どちらが優れているという話ではなく、女性作家の特性がこの話を書かせている。

話がちとずれるが、先日生まれて初めて女性向メインの同人誌即売会スパコミに参加した。
その時に思ったことがあって、それは「女オタクは社会に普通にまじっているうえに、定年がない」ということだった。
どうもおれの勝手なイメージなんだが、男オタクは若いうちはいろんなタイプの人がいるが、三十代以上にもなると、見た目からして「この人ダメだ」って感じのやばい人か、あるいはプロ(ないしは専門家)しか残っていない気がする。
つまり、普通に仕事してて家庭持ってるけど一趣味として漫画(ないしはゲーム、アニメなど)を楽しんでいますよ、という人がいない印象なのだ。
だから、同人誌即売会に行くと、男性はほんともう、年配の人は濃いキャラしかいない気がするのだ。

ところが、スパコミではサークル参加の人も一般参加の人も九割以上が女性だったわけだが、それが非常にバリエーション豊かだった。年齢層が広いんだ。
それこそ十代の「あたしこういうとこはじめてなんです」って感じの子から「娘と一緒に来ました」という感じの四十代五十代、あるいは六十代の方まで普通にいる。
そのたたずまいがまた、どこにでもいそうな女の子や主婦のおばさんなのだ。
いや、もちろんキャラの濃い人もいる。それはもうたくさんいる。しかし、それ以上にたくさん、普通のオタクがいるんだ。なに食わぬ顔で過ごしておきながら、同人誌まで買っちゃうほどオタクなわけだ。
こういうのって、男だと少数派だと思うんだよなあ。いい歳こいて「ただ単にオタク産業が好き」というのが、男にはあんまり選択肢としてないんじゃなかろうか?
「いい歳こいて普通にオタク」
これは女性ならでは……とまでは云わないが、女性的な感覚だと思う。

結局のところ、こういう産業は漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、現実逃避の代物だ。現実に満足してたら必要ないのだろう。しかし、現実逃避との付き合い方が男性と女性ではちがう気がする。
よく男性オタクが「三次元の女なんて二次元に比べたら……」という旨の発言をする。これはもちろん誇張表現なんだろうが、男性オタクの心理を的確にあらわしている。
現実から逃避した先の「第二の現実」としてオタク産業を求めているのだ。ゆえに、そちらの世界を選んだ時点で現実を否定する。
対して、女性は現実の脇道として利用している。現実はあるけど、それはそれとして楽しんでいる。
現実逃避している最中でのこのスタンスの違いが男性オタクと女性オタクを大きく隔てているのではなかろうか?
もちろん、個人差はあるし、どちらが優れているという話でもない。特に女性は現実をひきずっているがゆえに、好きだった作品に対して存外に冷淡なことがよくある。

まあ、唐突に実例も証拠もない感覚論でオタクを語っても説得力などないだろうが、別に説得する気がないので良い。
で、なにが云いたいかってえと、皆川博子は「いい歳こいて普通にオタクだったんだろうなあ」ということだ。
オタクっていうとまた語弊がある気がするが、とにかく現実生活を送るかたわらで、しょっちゅう妄想世界で遊んでいたのだろうなあ、と。

皆川先生には学がある。深い知性がある。資料も読みこんでいるし、歴史の検証もばっちりだ。一読しただけでその人格、教養は尊敬に値するとわかる。『死の泉』とはそれほどまでに彼女をあらわしている。
が、結局のところ、この作品がなんなのかというと、彼女の理想を詰め込んだ妄想おもちゃ箱に過ぎない。
正直、読み終わったあとに、この作品をどう受け止めるべきなのかよくわからなかった。思わずタイトルで検索をかけて他人の感想を読んでみたりもした。みんな、おおげさに受け止めすぎだと思った。
文章がうまく、教養がある。そのせいで騙されまくっている。
率直に云おう。

これ、仮面ライダーだろ?

ライダーたちがショッカー壊滅後にも生き残っている死神博士を倒しに行く、これはそれたけの話だ。
ただ、作者の趣味の問題で、主人公が仮面ライダーではなく死神博士になってしまった、それだけの話だ。本当にもう、それだけの話なんだ。

この小説、ドイツの小説を野上晶なる日本人が邦訳した、という体裁をとっている。そのドイツ人は作中に出てくる人物であり、その人物は別の作中人物の手記をもとにこの本を書いた、というややこしい多重のメタ構造になっている。
よって物語の視点は、邦訳者野上晶の視点、ドイツの作家ギュンター・フォン・フュルステンベルクの視点、元となった手記を書いたマルグレーテの視点、そして皆川博子の視点があり、そのすべてが微妙にずれている。
このことが事件の真相を曖昧なものにし、幻想小説としての完成度を上げている……なんてのは、真実なんてものがあると思っている読み手の、それこそ幻想だ。

ない。
この作品に意味なんてない。読み解くべき事件の真相なんてないのだ。
他人のおもちゃ箱がガラクタ入れにしか見えないように、この作品の文章のほとんどは、皆川博子にとってこそ意味をなす、きらめくガラクタでしかない。
なんのためにいるのかわからないバカ少年ゲルトとそれにご執心のホモだちヘルムートのくだりが長いのにも意味なんてない。冒頭100余ページにも渡って緻密に語られるドイツの困窮の描写にも意味なんてない。
ただ皆川博子が書きたいから書いちゃっただけだ。この小説の七割は無駄で構成されている。
文章がうまくて時代認識が正しくて雰囲気が重厚だからうっかりすると勘違いしてしまうが、ジャンプ漫画を読んで登場人物をみんなホモにしてしまう腐女子のやお色妄想となにひとつ、本当にもうなにひとつ変わらない。
だから、この作品を男性が楽しむ姿とかまったく想像できないね。いたとしたら、そいつが変態なのか勘違いしているかのどちらかだ。目を覚ませ。お前が読んでいるのは重厚な文学巨編でも緻密なミステリー大作でもない。やお色暴走作品だ。

か、しかし。
散々云っといてなんだが、この作品のクオリティーは生半可なものではない。
なんのクオリティか? 耽美小説としてのクオリティーだ。
これほどまでに高い美意識で完成されている作品は滅多にない。中井英夫の名作『虚無への供物』に比肩、あるいは凌駕するほどの作品だ。
美とは、要するに偏見と思い込みだ。
その偏見が偏っていれば偏っているほど貫くことは難しい。時に自らをも苦しめる決断をすら美は要求する。美のために自らをもささげる決意……それをこそ美意識というのだ。苦しみに際して欲求に際して適時曲げられてしまうもの、そんなものは美意識とは呼べない。
この作品の中心人物クラウス・ヴィッセルマンは、まさに美意識の塊だ。

『羊たちの沈黙』という映画がある。大ヒットした。シリーズにもなった。
なぜか? 猟奇殺人者が探偵役をつとめるという設定の妙味、シリアルキラー・サイコパス・プロファイリングなどをモチーフにした先進性、主演二人の熱演、映像的なインパクトの強さ、緩急のついた飽きさせない脚本、余韻のあるエンディング。ヒットした理由はいくつでもある。
が、この映画を好きになる理由なんて一つしかない。ハンニバル・レクター博士が素敵だからだ。

初老であり連続猟奇殺人鬼の人食いである彼がなぜこれほどまでに魅力的なのか?
彼が明確な美意識によって動き、美意識によって自らを律した紳士だからだ。
『羊たちの沈黙』一番の名シーンは、レクター博士の登場シーンだとおれは思う。
刑務所の一室で分厚いアクリル板に囲まれ、なにも持たずに静かに座っているレクター博士は、しかしなによりも恐ろしい怪物として視聴者の目にうつる。
恐ろしいのも当然、かれの武器はなにも奪われてはない。もっとも凶悪なかれの武器は知性であり美意識なのだ。その美意識こそが、相手を穿ち、殺す。アクリル板も刑務所も、知性や美意識の枷にはならない。だから、かれは刑務所内にあっても自由なままなのだ。それを一目で理解させるシーンだ。

クラウス・ヴィッセルマンはレクター博士と同種の狂人だ。
その外見は肉のたるんだ中年の小男であり、その思想は善悪を超越し、その行為は人の命を弄んでいる。
だが、かれは美意識を貫いている。
カストラート(去勢によりソプラノを保つ成人男性歌手)を天上の美としてあがめ、不老不死を望み、古城の復元に執着し、民族浄化の名のもとにあまたの畸形を生み出すかれの行動は、美意識によってのみ統括されている。
「ナイン(いいえ)」という返事を許さず、自分が心の弱い人間であると認めるクラウスの行動原理は、自らの幻視した美の実現、ただそれだけだ。その美のためなら、クラウスは自らの心の痛みも肉体の痛みも地位も平然と捨ててのける。
この小説には、最後まで不可解な部分や意味のわかない部分が多々ある。それを前述のメタ構造による物語の幻想化と受け取ることは不可能ではないが、そんな必要はない。

最後まで読めばわかるように、この物語すべてがクラウス・ヴィッセルマンの美意識の領土、かれの変態性のしろしめす地なのだ。
クラウス・ヴィッセルマンの美意識がそれを求めていたから。ただそれだけの理由で、この作品ではなにもかもが起こりうるのだ。
この小説を楽しむのに必要なのは、複雑で不可解な物語を読み解く能力ではない。クラウスの美意識を受け入れる感性だけだ。

……そして、ぼくにはそれが足りなかったような気がするんです、はい。
いや、やっぱ無駄な部分が多すぎるよ……構成フェチのおれにはちょっと厳しいよ……

なんか話があっちこっちに飛んでまとまりがなくなったが。
大作にして力作だが、名作ではなくただのB級怪作。
そういう作品だと、ぼくは思う。

(08/5/27)






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