栗本へんへがデビュー前にしこしこ書き溜めてたまとめたやつ。 年齢ごとに四部に別れているので、感想もちょっと分けて書く。 十七歳 一編 ★『ぬくもり』 学年に二人か三人くらい混ざっている、ちょっと才気ばしった文学少女っぽい感じ。 高校生が書いたのかと思うと「ほう」と思うかもしれんが、作品的な価値はなし。 十八歳、表題作「接吻」含む三編。 ★『接吻』 ★『ママンの恋』 ★『高野詣――色子曼荼羅』 『接吻』は、ストーリーなんぞまったくない、ただのシチュだけの話だが(なんせ4ページ)、これを表題作にしたことに意味はあるんだろうか? 西炯子が竹宮恵子に師事していた時、これと同じような「せつない片思いしてますた」みたいなシチュだけの話で認められていたんですが、乙女たちにはこういうのはなにか大切なんでしょうか? 他の二編は、まあ良かった。 十九歳、四編。 ★『おゆき』 ★『六月の魔女』 ★『十二月』 ★『神のあやまち――フレデリックへの手紙』 才気走りすぎて、なにいってんだかわかりにくいよう。 なんつうか、むつかしい文章を書くことに酔っている、十代らしい作品とは云える。 二十歳、三編。 ★『不在』 ★『二十歳の遺書』 ★『壮士の雪』 二十一歳、一編 ★『Blues with a feeling』 この頃になると、ようやくシチュだけではなく、物語が出来てくるね。普通に読めた。 ただ、やはり死蔵されていただけあって、無名な人間が書いていたら、出版される可能性はまったく見出せない習作ばかり。 全体的に、すでに文章力はある。物語らなくてはならない内的必然もある。 が、物語がない。 若書きの見本のような作品集ですた。つまりファングッズなんですが。 無条件に際限なく愛され、それを当然のことと甘受し、なおかつ「もっともっと」を求める選ばれた天才、人より多くをもてるがゆえに人が持つものをもてぬ孤独、というのが栗本へんへの憧れというか、なりたかったもので、その投影が今西良であるわけで。 この時期および当初の作品には今西良的なキャラ像はよく出てくるのだが、正直、あんまり今西良は好きくないわけで。 これが数年後に「選ばれた天才の一人でありながら、真の天才(今西良)の前に敗れ去り、しかし他者に拝跪することはできぬがために、石もて逐われることとなった異教の神」森田透の登場となるわけで。あたしゃ透のファンなわけで。 つまり、まだ挫折が一段階足りないんだな、きっと。 でも今より文章に品格がある。 それは大事なことだ。
伊集院大介シリーズ。 なぜか何度も出てくるレズの藤島樹さんが、なぜかジゴロに口説かれたけど、変態だった。 これ、伊集院大介シリーズの必要ないやん! まあ、商売上の問題か。 伊集院大介ものではなく、栗本へんへがたまに書く風俗ものだと考えれば、悪くない。 むしろ、まだこれが書けるのかと少し安心した。『野望の夏』とか思い出したな。 最後で無理に「愛したくても愛し方を知らないアダルトチルドレン」の話にしかけているが、必要あったのか? 伊集院大介ものだから? シリーズの伝統だから? まあ、どうでもいいんですけどね。 しかし、なんか、なんか、なんか、このおばはん(失言)年々下品になってくなー。 昔は「下品なことにも憧れる小娘」で憧れはいっていた気がするんだが、どうもいろいろアレやソレを実践してきてしまったんじゃないかというようなもにょもにょもにょなので、なんかたまに鼻白むことがあるのよね。やりすぎじゃないですか、オス、という感じで。 まあ、私個人はべつに実際に乱れた性生活を送りたい願望はまったくないので、ほどほどにしていただきもにょもにょもにょ。
長編ホラー。 引っ越した先のマンションがなんかへーん。 なんか霊がいるっぽーい。 というだけの話。 本当にもうそれだけで、ありがちという言葉以外でどう表現すればいいのかわからないし、後半、霊能力者のうさんくさい力説がずっと続くくだりは、ほとばしるほどの頭痛を感じざるを得ない。 そしていつも通りにオチはなげっぱ。 ほぼ同じテーマ・ストーリーでこれより面白い作品は腐るほどあるので、これを読むのは狂気の沙汰だと思う。 |