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栗本薫 2004年


  六道ヶ辻 大賞ヴァンパイア伝説 たまゆらの鏡  う   

たまゆらの鏡―大正ヴァンパイア伝説 六道ヶ辻 (角川文庫)
栗本 薫
角川書店





道場をはじめる!

今回は残念ながらというか、なかなかの不作であって、一作しかなかった。その一作もまた、どうにも残念な出来というか、ま、内容に関してはおいおい説明するので今はおいておくとしましょうか。いい機会でもあるし、今回はこの作品を中心にちょっとシリーズ展開というものに関して一席ぶってみようかな、などと思うております。

さて、その件の作品ですが、栗本薫くんの『六道ヶ辻 たまゆらの鏡 ―大正ヴァンパイア伝説―』(なげータイトルだな)であります。
かなり厳しくいくので覚悟して読むように。

ストーリーは「大正時代、明治維新前の気風の残るある片田舎の街に、突如として外国から美貌の伯爵が訪れ、人々を魅了する。同時に、周囲の村々では奇妙な殺人事件が連続して起きる。その死体からは、なんと血が抜き取られていたのであった」というもの。

この設定で、しかも「大正ヴァンパイア伝説」というタイトル。小生のようなひねくれ者は「ははあ、これはひっかけなのであろうな」と当然のように思い込んでいたら、あにはからんや、なんとこの伯爵様は本当に吸血鬼であらせられた。しかもアルカード伯爵ご本尊であらせられるという(笑)
いや、失敬、思わず笑ってしまったが、キミは少々素直すぎるのではないかな?
一応にも二応にもこの斎門伯爵(と名乗っているのですよ、アルカード様は。呵々々)の正体というのが、物語の中心となっているなっているわけでしょう?
それをタイトルの時点でばらしてしまっているというのは、どうにも興が殺がれるというものだよ、栗本くん。どう考えても「大正ヴァンパイア伝説」という部分は不要、むしろ作品の楽しみを損なわせる蛇足であると小生は断言するよ。

添付してある「あとがき」とやらを見ると「友達と話しているときにこの単語が出て、その単語からこの物語を着想した」とあるから、なるほど、君自身は思い入れのある言葉やも知れない。だからと云って、それをそのままタイトルに使ってよいというものでもあるまい。自身の中でそう呼ぶのはかまわないが、他人に見せる「顔」とも云えるタイトルにこんなわかりやすすぎるものを使ってはいけない。安易に過ぎる。

安易というのは、この作品のすべてに横溢されている特徴とも云える。「大正ヴァンパイア伝説」という単語から着想を得た、それはよかろう。しかし、得た着想をなにもひねらずに物語を書いてはいけない。いや、書いてもいいが、そんな安易な思いつきだけのものを人に読ませてはいけないのだよ。
確か栗本くんはプロ志向だったと記憶しておるから重ねて強く云うが、いいかね、思いつきだけで書いたものを読者に提示しては「いけない」のだよ。「望ましくない」のではなく「してはいけない」のだ。わかるかな?

プロというものはだね、読者からお金を頂戴しておるのだよ。だからこそプロフェッショナルであるのだ。どんなに優れた技量を持とうと優れた作品を世に残そうと、それをもってたつきを得ぬものはプロとは呼べないのだ。逆もまた然り。どんな稚拙で俗なくだらぬ作品しか残し得ぬとしても、それをもって食べているものはみなプロフェッショナルなのだ。

この意味がわかるかな栗本くん? 我々創作者はね、すべて人のたつきを横から掠め取って生きておるのだ。よく云って、人から恵んでもらって生きておるのだ。河原乞食という言葉を知っているかな? 昔は歌舞伎役者はそう呼ばれていたのだよ。いまでは放送禁止用語かも知れぬがね、これが虚構を演ずるものの本質なのだ。乞食なのだよ。
わかるかな? 「だからこそ」本気で真摯に取り組まねばならぬのだ。「思いつき」ではなく、そこから発展した一夜の夢を虚無の白紙の上に築き上げなければならぬのだ。その夢の与えてくれるささやかなひと時に、読者は自らの血肉をもって稼いだ金銭を与えるのだ。その意味が理解できるかね? わからなくてはプロにはなれぬよ。これだけは断言しておこう。次作に取りかかるよりも、一度この点について深く考えることが先決だ。

いささか話が逸脱してしまった。作品の評にうつろう。と云っても、先にも云った通り、安易の一言である。
突如現れた美貌の伯爵、その正体はヴァンパイア。その同胞たる美少年、かれらによって人外と化した美少女、しもべたる人狼。そして彼らを追って現れる若きヴァンパイアハンター。まるでどこかで見たような登場人物の見本市ではないか。
「いや、これらのありふれた設定を大正時代に持ちこんだことに意味があるのだ」と云うかもしれないが、だからと云ってほかのすべてを安易にして良いわけではない。同人誌のパロディ小説ではないのだ。

それに、キミの発想はいささか時代遅れなのではないかな? 少女漫画の『ポーの一族』あるいはアン・ライスの『夜明けのヴァンパイア』ないしはその映画版『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を下敷きにした作品なのであろうが、これら一世を風靡した作品の後には、多数の模倣作や類似品が出たものだ。それらの中には志の低い駄作も多かったが、趣向をこらした傑作もまた少なくはなかった。それらの後継作に、キミは触れていないのではないかな?

読書量がすなわち技量とはならないが、自らの手がけようとしている分野に関して常にアンテナをとがらせ、情報を刷新していくことは作家にとって必須の技能なのだ。まずは多くの吸血鬼ものに触れてみるべきだ。そうすれば、自分の着想がいかに安易なものであったか気づけるはずだろう。安易さの中から生まれたキャラクターには、生命の息吹が足りないのだよ。そこが最大の問題なのだ。

次に、文章に関してだが、長い。だらだらしすぎている。
キミはこれを「時代がかって雰囲気のある文章」だと思っているかもしれないが、なに、いちいち説明が迂遠で鬱陶しいだけだよ。たしかに、こうした迂遠さが物語を効果的に盛り上げる場面も存在するがね、全編がこれでは疲れてしまうばかりだ。ストーリーが安易で薄いうえに、文章にメリハリがないのでは、読者はなにを楽しめばいいのかわからぬよ。
ことに前半はひどい。はじめの半分、これは丸々カットしても問題がないくらいだ。この程度の舞台設定、2Pくらいでちゃっちゃっと済ませてしまえばいいのだ。読者が楽しみにしているのは、そんな部分ではないでしょ? 思いついた設定だの人間関係だの小道具だのを全部書く必要もない。必要なものを必要なときに必要なだけ書けばよいのだ。

だれかと友達になるとき、あるいは恋人になるとき、その相手の過去なり人間関係なりを全部把握する必要はないでしょ? それと同じことなんだよ。必要に応じて知っていけばいいのだ。読者を新しい友達だと思って、与える情報をコントロールするのだ。ちょっと難しいテクニックかな。まあ、がんばって設定を説明するのはキミも疲れるが読者も疲れるよ、ということだ。

後半も、これは三分の一くらいに縮めるとちょうど良い。
つまり、全体で50枚の短編、ないしは100枚程度の中篇にするしかない話なのだ。長編で書きたいならもっとストーリーを根本から練り直さないといけない。

あと、これは気になった点なのだが、キミの作品はちょっと説明に説得力が欠けるというか、力技に過ぎるのではないかな?
後半、ヴァンパイアハンターが現れて「あいつは吸血鬼なんだ」と告発するけど、これ、証拠がなにもないよね。いくら初対面の人に熱弁されてもさ、それで見知った人を「そうか、あの人は吸血鬼だったんだ」と得心しますかね、普通の人は。初対面の相手を疑うだけでしょう? 同様に伯爵の誘いもうわっつらの言葉だけで、なにも吸血鬼たる証拠を見せてくれてない。
これ、ちょっと見方をいじわるにすると、スケコマシが吸血鬼ぶって田舎の女の子をだまして処女喰いを企んでるようにしか見えないよ。

確か、キミがけっこう前に書いた作品、たしか『ゲルニカ1984』だったかな? あれらにも「相手の熱弁を聞くだけで非常識な設定を納得してしまう主人公」が出てきたけど、普通の人だったら、これ、主人公がだまされているだけだと感じるよ。ところが、今作でも「ゲルニカ〜」でも、相手の主張が本当に正しいのね。これ、読者に納得させるのを力技でごまかそうとしているだけだよね。
こういう悪い癖は、早くに直しましょうね。力技で強引にもっていくより、納得のいく展開を見せたほうが、お互いにいい気持ちになれるものですよ。

ここらでちょっとだけ褒めておくと、斎門伯爵が、吸血鬼の姿が映るという「たまゆらの鏡」を求めてわざわざ来日した、という設定はよかったよ。いかにも吸血鬼らしい気の長い話しだし、吸血鬼が鏡を欲しがるって云うのが、なんとも可愛いではないか。
なのに、もったいない。肝心の鏡を手に入れるくだりは「探してるよ」「ついに手に入れたよ」だけで、なんのひねりもないし、描写もないし、ストーリーに一切絡んでこない。ここを膨らませれば、なかなかに面白い作品になったかもしれないのに。せっかくタイトルにまでしたんだから、もうちょっと鏡をストーリーに絡ませるのは必然だったのではないかな?

なんだか前提の話しが長くなってしまったが、そろそろはじめに云っておいたシリーズ展開の話にうつろうか。
この作品、彼女の構想している大河作品『六道ヶ辻』シリーズの一作らしくて、だからタイトルにもそうついているのだ。ま、それはよろしい。
問題は、だ。後半に出てくるヴァンパイアハンター、これがシリーズお馴染み(らしい)人物で、そこがサプライズになっているんだが、逆を云えば、いままでのシリーズを読んでいないと、まったく楽しくないのだ。ストーリー自体の結末もこの人物に関わるもので、つまり、作品の後半がいままでのシリーズにまったく依存してしまっているのだね。これは良くない。

シリーズ同士の微妙なつながりを楽しんでもらいたかったのかも知れないが「知っていると楽しい」と「知らないとつまらない」では大違いで、これは後者に属するものだ。二巻三巻とタイトルに表記されているものなら仕方があるまいが、いみじくも単独タイトルとして提出されているものなのだ。単品として楽しめないといけない。この点においても、この作品は読者を置いてけぼりにしてしまっている。

それに、これはもう、読者としての単純な感想なのだがね、このシリーズの中心にいるらしいこの大導寺竜介なる人物。
なにやら旧家を再興させて軍部や政治にも太いつながりを持った稀代の傑物らしいのだが、どうにもその英傑ぶりがこちらに伝わってこない。作品ごとにキャラクターが違っているのも、一人の人物の多面性というよりは、設定と展開により適当に変えられてしまっているようにしか受け取れない。あるいはいっそ、シリーズすべてにこの人物が出てきて、全体を通すと一人の英雄の一代記になっていればそれはそれで面白い趣向なのだが、出てくる作品と出てこない作品がまちまちなので、どうにも意図がよくわからないのだ。なんとなく思いつきで出しているようにしか思えない。

シリーズ展開の話をもうちょっとしようかと思っていたが、案に相違して別の話しが長くなってしまったため、そろそろ枚数が尽きてしまうので、この辺にしておこう。
ただ、一言これだけは云っておかねばなるまいが、小生、なかなかに栗本くんのことを買っておる。だからこそ叩きがいがあるし、色々と云いたくもなるのだ。これは貴重な資質であるので、くさらずに精進して欲しい。まずは四級から。化けてくれることを期待している。
ちと慌しくなったが、これにて道場を終える。礼!






  身も心も 伊集院大介のアドリブ  う 

身も心も <伊集院大介のアドリブ > (講談社文庫)
栗本 薫
講談社





 有名なサックス奏者の矢代俊一に、謎の脅迫状が届いているというので動き出した伊集院大介でしたが、いろいろあって矢代俊一はヘヴン状態になりました、おわり。

 伊集院大介シリーズであり、同時に『キャバレー』から続く矢代俊一シリーズでもある。矢代シリーズがどこの出版社からも出してもらえないので、伊集院大介シリーズに出せさてしまったという強引な技であろうか?
 思ったよりは面白かった。話的にはどこかで見たような、具体的に云うと『ぼくらの世界』で見たような気がしないでもないが。
 しかしあまりこまかくコメントしたくはない。作中の矢代俊一(四十歳からのジルベールブラウスデビュー)の状況が、栗本薫の自己投影まるわかりで気持ち悪いからだ。
 あと昔から思っていたが、薫は曲の名前つけるのホントへたくそよね。この曲は買わねえわ、と直感で思うね。






  聖者の行進 伊集院大介のクリスマス  うな 

聖者の行進―伊集院大介のクリスマス (講談社文庫)
栗本 薫
講談社








長編ミステリー。
ネタばれしてるっす。

伊集院大介馴染みのクラブのママ、藤島樹はレズビアンの五十代。
いつも気だるく過ごしてきた彼女のもとを、懐かしい人物が訪れる。
六十歳をいくつも過ぎて、百八十を越す長身と百五十キロにも及ぶ体躯をギラギラとしたスパンコールのドレスに身を包みポンパドールに結い上げた真っ赤なカツラをかぶるその人物――オカマのジョーママは、かつて樹が勤めていた店“ママ・ジョーズ”のママさんだった。
ママは「最近困ったことが続く」と樹に愚痴を漏らすのだが、その数日後、店で自殺している所を発見される。
果たしてママの死は本当に経営難によるものなのであろうか――

という話なんだが、前置きなげえよ。
なんで260Pの話なのに、事件が起きるのが180P目なんだよ。
三分の二以上消化してるよ。
つめろよ、その180Pを20Pくらいに。
そんで後半の80Pも半分の40Pにして計60Pの短編にしたら、
文章の乱れはやや気になるものの、テーマ的には気の利いた短編になっていたと思うよ。
実際、中期の伊集院シリーズ短編にはこういう話が多かった。
『獅子は死んだ』は似たような形式でも白眉だと思う。

えー、まず根本的なところをネタばればれで叩くと、百キロを越す巨体を女の細腕でもちあげるため、天井のパイプに縄を通して、滑車の原理で吊り上げた、と。

無理だよ。
パイプはカラカラ回らねえだろ
摩擦はどこへ行った、摩擦は。

で、自殺に見せかけることによって店のリニューアルをなかったことにさせ、その間に店内に隠した麻薬等のヤバイ物を持ち出そう、と。

無理だろ。警察が調べて持ってくだろ、そんなもの。
どこまで警察をボンクラだと思ってんだよ。

と、いうミステリー的ないつもの欠陥はともかくとして。
でもなんだろ。
ぶっちゃけていえば栗本薫のミステリーなんて全盛期からどうでもいいトリックばかりで、めたくそでも気になることなんて微塵もなかったんだが(それもどうかと思うが)なんで今回はミステリーとして欠陥品だと思ったのか。

元々ミステリーってのは5W1Hを当てるもので
なんだっけ?
誰が殺したのか
どこで殺したのか
いつ殺したのか
なにを殺したのか
どのように殺したのか
どうして殺したのか
に分けられて(なにをってのはなかったっけ?)その一つが事件の究明に密接につながっている、というもので、たいていはその中軸となるものがわかれば、連鎖的にほかのいくつかも分かるようになっている。

元祖ミステリーの『モルグ街の殺人』は「誰が」がわかれば「どのように」もわかる。
えー、うまく例が思いつかないが、綾辻行人の『十角館殺人事件』なら変則的ではあるが「誰が」がわかれば「どうして」「どのように」も容易につながる。
栗本薫の旧作で云っても、例えば『優しい密室』なら「どのように」密室がつくられたのかがわかれば「だれが」「どうして」も連鎖的にわかるし、『鬼面の研究』でも論理的に「いつ」「どのように」がわかれば「だれが」もわかり、それが「どうして」と密接につながっていたものだった。
全体的に一つの謎の究明がほかのことと密接につながっているほうがミステリーとしては上質なのかな?

今作は「どうして」がメインになるものだが、
その「どうして」がわかっても「だれが」「どのように」とまったく関係がないし、だから推理の余地なんてこれっぽっちもない。
その上でトリックが理不尽でツッコミどころ満載なんだから、フォローできない感じなんだろう。

とはいえ。 この小説、嫌いではない。
主人公の藤島樹は、五十代にしてもてもてのレズビアンという、なんか最近の栗本先生のご自分の理想像の一つですかそうですかという感じで、その気だるさもモテっぷりもカッコいいというよりダサい喋りも、かなりげんなり気味であったのだが、しかしジョーママの強烈なキャラクターがそれを救っていた。
だってこれ、どう見ても栗本薫じゃん。

痩せてまともなメイクをすればそこそこまともな顔なのに、厚化粧にケバイ衣装ですべてを台無しにし、いつもハイテンションでおしゃべりして二人きりになることを敬遠されつつ、不思議とみなに好かれるところがあって、物静かな老人がパトロンについており、面倒見もよかったので店を大繁盛させていた。
しかし、いまではすっかり落ちぶれて愚痴っぽくなって、妙に見栄っ張りで、店が生き甲斐だから手放すこともできずにしがみついているが、続ければ続けるだけ赤字が増えていく一方。
周りの人間には「あの店はもうダメだ」と言われ、昔をしか知らない人間は目を細め「あの店は素敵な場所だった」と懐かしがる。

どう考えても栗本薫そのものです。
これ、意識的に書いてるの?それとも無意識?
ちょっと抜粋すると

ママのことばは、同じことを何回も繰り返していう、というのもあるけれども、また、自分のなかだけではすごくきちんとした論理が成立しているけれど、それが実は他の人間にはまったく通用しない論理だ、というようなことがものすごく多いのだ。


しかし書き写して改めて実感するが、すごい悪文だな。
一文で「けれど」「けれども」使うか?普通。「また」とか「それが実は」とかいらん言葉も多いし……
「ママは同じ事を繰り返して何度も云ううえに、他人には通用しない自分だけの論理をふりかざすことが多かったのだ」
ではいかんのかいな。
つうか「云う」を漢字で書かなくなってるな、よく見たら。
おれ、栗本先生の真似して「云う」と書くようになったのに……ぶつぶつ

ま、ともあれこんな感じで、ジョーママの描写はどこを切り取っても最近の栗本先生本人なんですわ
しかし、意識的にやっていたのだとしたら栗本先生はもっと湿っぽく同情的に書くはずなんだけどな……
無意識なのか?やはり。うーむ。
怖い。栗本先生の無意識が怖いよー。
認めてしまえば楽になれるのに、な〜〜ぜ〜〜

とヴィレッジ風になったところで、面倒くさくなったのでやめる。
ま、栗本先生から見た栗本先生の惨めさがけっこう泣けるよ、という作品でした。





  鬼  うな

鬼 (ハルキ・ホラー文庫)
栗本 薫
角川春樹事務所





長編ホラー。
愛してもいない男の子供を育てるシングルマザー克子。
友人もなく話す相手もなく、近所からは胡散臭い目で見られ、職場では軽んじられ、ただ近所の青年に淡い憧れを抱くだけの、なんの救いもない日々。
ままならぬ気持ちは子供への虐待を生み、そのことがまた彼女の狂気を深めていくのだが……

あ〜〜〜……
もったいない…… いや、正直、思ったよりずっと面白かった。
栗本薫のホラー六作の中では、2、3番目に面白いと云っていい。
(内訳・家>>>>>>>>>>町=鬼>顔>壁>指)
超常現象を出すとすぐに底の浅さが知れてつまらないB級作品になる栗本先生だからして、心理ホラーに焦点をしぼった今作は比較的成功していると思う。
これで、日本語がまずくなければねえ……。

とにかく、ところどころでこちらの気持ちを冷ましてくれる言葉のセレクションが、ホントにもう、いかんともしがたい。
かつて小説道場で
「せっくいいストーリ考えても、変なとこでぼろ出すから陳腐に見える。それがもったいないから、テクニック身につけましょうね(意訳)」
と仰っておられましたが、まさにその通り。
陳腐に見えてもったいないので、くだらないぼろ出すのやめてください。

ストーリー自体は、構成もわりとちゃんとして、中盤での盛り上げどころもつかんでるし、近年にしてはだらだら感が薄かった(薄いだけでだらだらだったけど)
往年の文章で書かれていたら、一息に読める良作だったかも知れない。
主人公が本当にいやな、気持ちの悪い、関わりたくないブスってあたり、なかなかいい。
けど……これ、本来はもっと悲しみを表現したかったんじゃないのか?
身も心も醜い者の悲しみをさ。
この書き方だと、ちっとも同情できないんですけど。

あと、デブオタを出して「知性などなさそう」とか、なんか、昔からそうだったけど、栗本先生はデブ=池沼みたいなイメージ持ってるよね。
いや、おれもお相撲さんをちょっとそういう目で見てるけど。

でも、デブオタって、バカも多いけど、脂肪と一緒に無駄な知識もためこんでいるタイプも多いから、デブオタ=ダメインテリ、みたいな印象もあるんですけど、栗本先生にはなんでまったくそういう発想がにゃいのかにゃ?
そうやってデブをいつまでも馬鹿にしているから、自分がデブだと認められないんだにゃ。
デブにもインテリはいるし、栗本先生もデブ。認めていこう、現実を。

えーと、中盤、子供をもにゃもにゃする前後のくだり、保育園で説教されて園長を憎むくだりなんかは、最低人間の思考で、でもちょっと気持ちがわかっちゃう感じもして、わりとよかったです。

オチは、なんか疾走感がなかったです。不思議なくらい。
もっと最後の15ページくらいは切れ味よくやって欲しかった。
そこさえクリアーできてたら、ほかの粗もずいぶん許せたんだけどにャあ。

まあ、栗本ホラーとしては及第点、かな。日本語以外。
おれ。そもそもホラー好きじゃないからなあ。






  とんでもグルメ  う

とんでもぐるめ―あずさ流極楽クッキング (グルメ文庫)
中島 梓
角川春樹事務所





中島梓が自サイト『神楽坂倶楽部』で不定期連載していたコラム『とんでもグルメ』からいくつかを抜粋、編集して出版したもの。
コラムの内容は、梓のお薦め料理についてたらたらと語り、のちにレシピなどを適当な感じで解説していく、というもの。

まず一読して「あれ?」と思った。
「あれ? 神楽坂倶楽部だともっとひどい文章じゃなかった?」
いや、もちろん、ここに収録されているのも決して褒められたような文章じゃない。褒められた文章ではないが、神楽坂に載っていた文章は、なんというか、もっと本質的なところでどうしようもなく腐った文章だった気がするのだが……
冒頭の文によると、編集者の勧めで顔文字は排除したそうだが(でも(爆)を取るのは拒絶。なにそのいやなこだわり)それだけとはとうてい思えない。

そう思ってちょっとネットを探って当時の文章などを探してみると……うん、ちがう。明らかに短くなってる。これ、一度推敲されてるわ。
うわー、なんだよ、推敲するだけでけっこうマシな文章になるんだな〜(いや、それでもプロの文章としてはひどいと思うが)これだったら普段の作品も推敲すりゃいいのに……と故人にいまさら無意味なことを呟いて、と。

そういう文章の手直しを抜きにしても。
基本的に「あれうめえ」「これうめえ」「〜〜大好き」というノリの文章がメインで悪意がないため、近年のほかのエッセイよりはずいぶんと素直で読みやすいものだ。
時折「外食はまずくて食えたもんじゃない」的な一言が入ったりしてちょっとイラッとしたりすることはあるが(しかもそのちょっと前に「近くにてんやができて嬉しい」とか書いてあるし)基本的にはごはん好きによる「ごはん大好き」という話のため、素直に読むことができる。これはとても大事なことだ。

しかし、では食べ物エッセイとして優れた作品なのかというと……うーん、比較的面白い部分は20年位前に書いた『くたばれグルメ』の劣化コピーに過ぎないし、そうでない部分は実にどうでもいい話がほとんどで、あまりお薦めできるものでもない。
また、実は昔からわりとそうではあるのだが、梓は昔っから、食い物の表現が、なんというかこう「それ食い物の表現に使っちゃダメだろ」というような、雑な言葉を無造作に使ってくるので、食欲が減退することがままある。
この本では特に(多分)混ぜご飯のことを「汚いご飯」と表現していて、お前それは刑務所かなんかで食わされるのかよって感じで実にげんなりした。うまそうな下品食いには定評のある薫さんではありますが、さすがにここまでくるとついていけないです。

で、紹介されている料理に関してですが。
意外と普通。
どうも編集者がセレクションしたみたいで、コンビーフご飯のような本当のとんでもレシピが載っていない。
なので良くも悪くも普通。
つうか、本当に「それみんな知ってるから」みたいな料理が多いし、そのよくある料理に梓流の一手間、というパターンが多い。そしてその一手間はあってもなくてもどっちでもいいんじゃないか? というものばかり。
でもまあ、普通に作れば普通に食べられそうなものばかりなので、別にそんなにとんでもではなかった。

ただ、レシピ本としては役に立たない。
なにせ分量がまったく書いてない。
ほとんどの味付けが「自分の好みで適当に」くらいに書いてあるので、おまえ、それでうまく作れるやつはこんな本読まないでもうまく作れるわいと思ってしまった。
特に笑ったのが、ビビンパだっけな? 米物で、ご飯や他の食材の分量は書いてないのに、なぜかひき肉だけ200gって書いてあったところ。肉から他の量を逆算するのか?w

あとはまあ、調理の手順が、改行の少ない文章でだら〜と一気に説明されるので、どういう料理法なのか、適当に読んでると理解も想像もし辛い。普通に読んでるとうまそうともまずそうとも思わないんだよなー。料理エッセイとして、それはどうなんだろう?

この本を読むと、梓流の味付けはなにも見なくても簡単に再現できるようになる。

1 サラダ油の代わりにバター・オリーブオイル・ごま油のいずれかを使用する
2 同じようなもの(ドレッシング二種類とか、ルゥ二種類)を混ぜて使う
3 コクが足りない時は生クリーム。一味欲しいときは味の素
4 最後にチーズをのせてオーブンにかけて仕上げる
5 卵とじ

これらの工程から2〜3種類をやればなんでも薫味になる。マジお薦め。
ただしどう考えてもカロリーが高くなる工夫で諸刃の剣。
あとは、食材はとにかく種類をたくさん用意して、たくさん混ぜまくるほどうまい、という思想かな。ちなみにこの思想、栗本先生のすべての創作における根本思想ですよね。

で、この本の中から実際につくって食べてみたものの感想をいくつか。


・オニオングラタンスープ

1 玉ねぎのみじん切りをあめ色になるまでじっくり炒める
2 お湯を適量入れ、塩胡椒などで好みに味付けする
3 フランスパンのうえにかける
4 とろけるチーズを乗せてオーブンにかけ、チーズが溶けたら完成

うまい。
というかまずくなる余地がない。普通すぎる。
しかし味付けという肝心の部分が各人任せなので、これはレシピとして成り立つのだろうか?
しかしフランスパン、久しぶりに食べるとうまい。


・キノコのバター炒め

1 キノコをスライスし、バターで炒める
2 とろけるチーズをかける

うまい。
ただこれは料理と呼べる代物なのか?


・翌日おいしい焼きカレー

1 昨晩の残りのカレーを用意する
2 ご飯のうえにのせて、真ん中に卵を落とす。
3 チーズを乗せてオーブンにかける
4 卵が好みの固さになったら完成

うまい。しかし焼く意味がない。
単に目玉焼きをのっけてチーズを載せただけではないだろうか?
わざわざオーブンにかけるなどという時間をかける意味がわからない


・煮物をあげる

1 昨晩の残り物の煮物は揚げる

意味がない。煮物は煮物として完成されている。その一手間いらない。


以上。
全体的にあまり意味のないチャレンジに終わった。
まあ、この本自体の結論としては
「編集者がちゃんと仕事をした方が粗は減る」
という至極当たり前のことだったかな。
じゃあそういうことで。










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