クラスでぷちいじめにあっていた小六の桜子は、ある日、近所に住む名物金持ち偏屈じいさんと仲良くなるのだが、思いあまってじじいを押したおしたりしているうちに、いじめが激化したりしたのですが、そんなころ、近所では謎の失踪事件や脅迫事件が起きていて、伊集院大介がうろちょろしていて、犯人はじいさんだったけど自殺したので桜子も後追いしました。おわり。 あ、ごめ、ちょっ、うっかりあらすじがネタバレになってたけど、でもいいよね。 それにしてもきもい。本当にもう、きもいとしかいいようがない。クラスメートを素で見下して「いやな世の中よぉ」とか思ってる小学六年生の桜子が、全然小学生に見えなくてまずきもい。いじめられていてもぜんっぜん可哀想な感じがしない。 興奮して老人おしたおして「胸にキスして」とか云い出すあたり、本当にもう、このアマは一度死ねばいいのに、と思ってしまうくらいにきもい。ここまで好感のもてない小学生というのも凄い。 じいさんもじいさんで、本当にただはた迷惑なだけだし、小学生に迫られて体中撫でまわして「純愛純愛」という姿は、実にきもいとしかいいようがない。 おそらくは栗本先生自体は「はぐれもの同士の身の寄せ合い」とか「年齢差を越えた愛」みたいなものを書きたかったのかもしれない。が、結果としてきもく発情した小学生がいじめられてきもくうざい老人とからだをまさぐりあうという、本当にもうきもいとしか表現のしようのない話になっている。 いや、きもいのは栗本先生の昔からの基本といえば基本なんだが、なんでどうしてこんなにも好感がもてない感じにきもいんだろう? 当然、伊集院大介も近年の常としてやたらと感じが悪く、また推理に関しても「この文を書いた人は「やから」を「輩」、「いつか」を「何時か」と漢字で書いていたので若者はそんなの書けないので老人」というように、本当にもう、大介は完全に呆けてしまったんだな、としか云いようのない感じになっている。 いったい、どんな読者にどんな気持ちを呼び起こさせようとして書かれたのか、まったくもって理解に困る作品。百人が読めば百二十人がキモイとしか思わない、そんな作品。 やっぱ作者的には世間からはずれてしまった者たちに感情移入させるつもりだったのかな? 主人公たちの気持ち悪さやいけすかなさって別に狙ったものではまったくなくて結果的にそうなってしまっただけで結局、作者が普通に気持ち悪くていけすかないいやなやつになってしまったから作品もそうなっただけなのかな。切ねえなあ。 でもこれアレかな、この小学生はいつも通りに薫の自己投影で、この老人は旦那なのかね。じゃあ大介が老人を非難しているのは、旦那への不満の吐露なんですかね? 弱者同士の身の寄せ合いで、若くなにもしらない自分を騙していただけだという。でも大介は大介で今岡くんの投影だからなー。理想の今岡くん対現実の今岡くん? どっちにしろ、この作品読んで面白いっていうやつはこの地上に存在しない。それだけは確実だ。趣味は人それぞれとはいえ限度がある。
年上の主人の下に嫁ぎ、貞淑な妻として退屈な毎日を送っていた真珠子のもとに、突如あらわれた野蛮な男、天童壮介。 壮介は真珠子の旦那にとりいり、夜中に真珠子のもとにやってきて傍若無人に彼女を犯す。 天童によってはじめて彼女の肉体は女の悦びを知ったのであった。 しかし天童は真珠子に旦那の金を盗めと脅迫しはじめる。 えーと、大正ハーレクインロマンスってやつですよね。 昔、ママンのレディコミでよく見たよ。いい人なんだけど性に淡白な主人と暮らしていたら、チョイ悪な若い男に抱かれてあれよあれよみたいな話。うん、あったあった。つうか九割くらいがそうだった。主婦ってそんなにワイルドな男に襲われたいのかしらん。 文章は、はじめの方はけっこう真面目に書いていたのだが、話が進むと「イった」「スリル」「チューインガム」など、おまえ大正浪漫する気ねえだろとしかいいようのない単語が頻出しはじめ、栗本先生お願いだから文を読み直してくれという気持ちが高ぶるばかりであった。あと無駄に長いのもいつも通りだが、これはいつも通りなのでなにも言わない。 全体的に『野望の夏』を焼きなおして大正時代にして、ストーリーをずっと薄味にした作品であった。オチは『野望の夏』ではひねってあったのに、これはひねりもくそもないし。 まあ、なんつうか、おばさんちたちのセックスファンタジーにはあんまり付き合う気がしないって感じ。 でもハーレクイン(つうかレディコミ)としてみたなら、ベタでそれなりに読める話のような気がする。ハードレディコミ好きに是非。
ミステリーなのかどうかしらんが、名探偵ということになっている人物が出てくるシリーズ。 デビューして十年の中堅作家・森カオルは、取材で東北の山奥にある村に行きました。 そこでうだうだしているうちに結婚相手が見つかりました。 終わり。 ちょうドーデモE。 『鬼面の塔』と『天狼星』の間にあったエピソードをいまさらやり、『天狼星』の中で唐突にそういうことになってた森カオルの結婚にまつわるエピソードをいまさら公開という、なんだがいまさらやられてもどうでもいいとしかいいようがない。 山奥にある村は「まるで明治時代がそのまま残っているよう」ということになっている。 作中の年代が1970年代設定で、さらにその年代の人間が山村を明治を感じるというわけで、つまり読者には1970年代の空気と明治時代の空気の両方を感じさせなければいけないのだが、もちろんいまの薫にそんなことが出来るわけもなかった。 読み終わってから考えると「なにをそんなにたくさん書いてたんだ?」と考え込んでしまいたくなるくらいに、情景等はなにも思い出せない。それは物語の中心であるはずの樹霊の塔とやらに関してもそう。 つうか、作者が読者に何を提示したいのかがさっぱりわからない。 山奥にある村のひなびた美しさなのか、因習の恐ろしさなのか、さっぱりわからない。話がやけに長いけど、なにを云いたいんだ、この人は? と普通に疑問に思ってしまう。とにかくなにも伝わってこない。 で、ページ数が三分の二ほど消化されるまでとくになにも起こらないのも近年の伊集院シリーズお約束で、事件が起こったら速攻で伊集院大介がやって来て、なにごともなく事件が解決するのもいつも通り。 大介の推理も「首吊り自殺に見せかけてるけど、踏み台がなかったからすぐわかった」という、そりゃだれが見てもわかるがな、というもので、どんだけトリックにやる気がないんだよと素直に思った。 つうか最近の大介さんは普通にきもいのでなんとかしてください。 主人公は現場のすぐ近くにいるのに、事件の渦中をまったく描かないで、あとから人づてにだらだら聞かされるというこのシリーズでしかありえない退屈な終盤もいつも通りで、犯人がしゃべらせてもらえないのもいつも通り。つうか、この犯人の扱いの悪さって、ミステリーとしてちょっと画期的かもしれんな(爆) 森カオルの恋愛模様にしても、なんか昨日あったばかりの人物がどたばたしてるところにあらわれて急にキスして「昔からファンでした。結婚しましょう」「え、ええー? でもそれもいいか」という、なんかもう、お前はどんなバカのもてないブスなんだよといいたくなる急展開。口説かれたらそれでいいんかいな。 この作品で読者にどう思ってもらいたいのかがまったく不鮮明で、最近の栗本薫の読者不在っぷりはちょっと怖い。ほんともう、どこを楽しめばいいんだろう。クオリティの問題じゃなくて、どの方向に向かっているのかがまったくわからないよ。 (09/1/13) |