伊集院大介シリーズ。 伊集院大介が「ああ鬱だ鬱だ。仕事なんてしたくなーい」と近所をふらふらしてたら、木蓮がやたらたくさん咲いている洋館があって、そこの80になるお婆さんと仲良くなったけど、その辺りでは20年前から子供が行方不明になるって聞いてめんどくさいなーと思いながら仕事をはじめたよ。 まあ、ミステリーになってないのはいつも通りのことだからいいとして。 文章がぐたぐだなのもいつも通りだからいいとして。 伊集院さんはいつからこんないけすかないうざキャラになってしまったんだろう…… 今作では、ひさしぶりに冒頭からずっと伊集院大介が出ずっぱりで、事件も三分の一の時点で起こっていたし、そういう意味ではシリーズ的にはわりとまともな作品だった。 はずなんだが、とにかく伊集院さんがうざい。 かつてあんなに優しかったはずの伊集院さんが、冒頭から「散歩しているだけで、いますれちがった夫婦は実は仲悪いんだなー、とか観察力が良すぎてわかっちゃうから辛い」とか気持ちわるくもいけすかない妄想垂れ流しはじめるし、とにかく言葉の端々や思考の一つ一つがきもいしうざい。つうか素で思い上がってるし。 そもそもなんだよ不思議な旅って。今日日ニルスでも不思議な旅なんて恥ずかしくてようできんわいな。イライラするなあ、もう。 で、いつも通りにネタバレしていくんだけど。 乙女チックすぎて結婚できなかった老婆がボケて「生徒は可愛がっててもいつかいなくなっちゃうからいやだわー」と思ってたので、デブスで老婆に依存しているお手伝いさんがかわいい子を誘拐して殺したりしてましたっていう、犯人的にはひねりもくそもない話なんですが。 栗本先生はほんと私小説しか書かないな。 そもそもこんなに加齢臭のひどいミステリーとかそうはないわ。 なんで登場人物がみんなして五十代六十代で、年上は八十代とかなんだよ。お前は自分と同じ年代のキャラしか書きたくないんかいな。 で、栗本先生の五十代六十代のリアリティのなさときたらホントに気持ち悪いとしかいいようがないので、いったいなにがしたいのかさっぱりだ。 んでもって、あれですか、生徒がみんないなくなる云々はワークショップや小説道場での実感ですか? で、以前からいろんな作品に出てくるデブスのお手伝いさんって、要するに中島梓のアシスタントのちゅうさんですよね。そんなに彼女の生き方に対して一物あるんなら本人に云ってやれ、本人に。 で、お手伝いさんの助けもあって、自分のお美しい幻想の世界で人に迷惑をかけながら幸せな人生って、そうですか栗本先生は自分がそうなってるとお気づきですか。 最近の栗本先生の話はほんと、そういう自分を告発するような話ばっかりで、見ていて苦しいよ。 残念ながらもう先も長くないんだろうし、幸せなら別にそれでいいんだけどさー。 自分で自分の人生がウソだって、ほんとは醜くみじめなんだって、やたらめったら色んな創作物で書いてるわけだしさー、認めて作品に昇華しようよ、それを。こんな無意識に垂れ流してしまった危機感でなくさ。 あと一冊くらい、渾身の作品書く時間はあるはずでしょうに。 なーんかホント、薫の近作は作者自体が実は自分がみじめだと感じ取っているのがダダ漏れで、読んでいて辛いよ。 幸せであれ。 人として無理なら、作家として幸せであれ。 作家にとっての誉れとはなんであるのか、もう一度考え直しなよ、ホント。 こんな若僧にこんな暴言吐かせてんじゃねーよ。 泣かせろよ、俺を。震えさせろよ、俺を。 (09/1/15)
『朝日のあたる家』ののち、庇護していた大スター今西良を失った作曲家・風間俊介は失意の日々を過ごしていた。そんな中、古い友人である野々村に借金をしに出かけた新宿二丁目で、輪姦されそうになっていた青年を助ける。 その青年・二宮忍に妙になつかれてしまい、居候させるうちに、次第に風間の心は晴れていくのだが、忍を追う武闘派インテリヤクザの黒須があらわれ、周囲に穏やかならざる空気を作り出していた。ところがひょんなことから、風間はその黒須と肉体関係をもつことになってしまい…… えーと…… うん……うん…… 見なかったことにしていいかな? いや、読み始めたとき「けっこう面白い」とか思ったんだけど、ごめん、最初だけだわ。 二段組で全五七〇ページもあるんだけど、その一五〇ページくらいまでかな、わりと面白く読めたのは。 その一五〇ページも、かなり文章がぐたぐだしてはいたし、どう見ても古臭いし恥ずかしいのだが、「風間俊介負け犬伝説」としか云いようがない内容で、そこが良かった。 いままでの作品では、二枚目でキザで金持ちでケンカが強くて教養と才能と名誉ある作曲家で、だけど今西良の魔力によりどんどんおかしくなってしまった、という設定だったんだが、どう見てもはじめからヘタレのダメ人間でしかなく、ゆえに「風間先生の魅力のなさは異常」としか云いようがなかったのだが、その輝かしい過去の経歴が、コンプレックスと虚飾に彩られたないものねだりの無能者の一生であることが暴かれていって、その自虐的精神性の気持ち悪さが、薫のねっとりとした文章とあいまっていい味を出していた。やはり、負け犬とキモメンの精神性を書かせて薫の右に出るものはいない。 風間に再生のきっかけを与える忍との出会いも、二丁目の店に行ったらちょうど輪姦の最中で「二丁目だったらよくあることだ」的な流れで、はっきり「ないな……ねーよ」と思いながらも、ちょっとエグく興味をひきつける出会い方ではあり、負け犬伝説のせいで展開がとろくはあったが、導入としては(ださい・きもい・はずいの三重苦ではあるが)及第点と云えると思う。 次にその忍を追うインテリヤクザが出てきて、それが蛇を思わせるぬらりとした三十がらみの美青年で、周辺では血も涙もない外道として通っている、というと『魔界水滸伝』に出てきた北斗多一郎を思わせる、ベタではあるがなかなか面白いキャラクター。 ところが敵であると思われていたこの黒須というヤクザと、風間はなぜか肉体関係を持つことになってしまい……というところも、面白くはあると思う。 この三人が物語のメインであるのだが、つまりこの三人の初期設定は、なかなか面白くなりそうではあるのだ。だから、この初期設定がゆっくりと説明されていく三分の一くらいまでは「一体この先どうなるんだろう?」という期待がもてた。 が、実際はこのあとに続くのは失笑と悶絶と落胆とヤマなしオチなし意味なしであり、最後に残る感情は「うん……うん……まあ、どうでもいいや」であった。 とにかく物語が初期設定からほとんどなにも展開せず、起承転結の承あたりで「おれたちの人生はこれからだ!」みたいになって唐突に終わるという、とんでもない打ち切り展開。おれが読んでた四〇〇ページくらいはなんだったの? と素直に聞きたい。 その空白の四〇〇ページの内訳は、すでに説明したことの繰り返しが二〇〇ページ、聞いているほうが恥ずかしい的外れで知識もセンスも一切ない音楽話が一〇〇ページ、きもいのSMセックスが一〇〇ページ、といった按配だ。 そしてまた音楽的な部分が恥ずかしい。 まず中盤で、拾った青年・忍が、音楽的教育を一切受けていないが天才的な歌い手であることがわかるのだが、ここがもう本当に脱力するしかない。 声域が広いことを描写していって、最終的に出る台詞が「この野郎、三オクターブも出やがる」それ広いのか? 少なくとも三オクターブじゃ天才にはならんだろ。つうかどんだけ声域狭いんだよ薫。一度曲を聴いたら、三十分くらいたってもまた歌えるとか、いや、それそんなにすごくはないだろ。薫の周りには音楽畑の人がいないのかよ。少なくとも天才ってレベルじゃないだろ、それは。それで絶対音感を持つものの悲しみとか、なにがしたいんだ薫は。 そもそもこの忍というキャラ。 バカで陽気で野性を感じさせる犬系キャラという設定で、やたらと「尻尾を振っているのが見えるような」と描写されるのだが、これがもう犬系キャラとしては画期的なほどにどこも犬じゃない。犬のバカさも健気さも可愛さもなにも表現できていない。 薫はまず犬系は誘い受けをしないし、部屋にひきこもらないということを知るべきだ。こんなにねっとりしてイラッとする犬系ははじめて。そりゃまあ、よく考えたら薫の小説ってびっくりするくらい犬系キャラ少ないもんな。ドードーくらい? ほんともう、ここまで犬系が書けない人がいるってことが驚き。 そんでもって犬的要素としてやたらとプッシュしてるのが、食べ終わったあとの皿を舐める。それ犬系じゃなくてただの犬食いや。育ちが悪いだけや。健気で賢いのもたくさんいる犬さんをバカにするな。 そんなわけで、音楽キャラとしても犬系キャラとしてもイライラするだけで微塵も魅力を感じない忍のせいで、中盤からは終始ガッカリ感に包まれることになる。 そこでもって風間さんの「新宿二丁目でモテモテ伝説」がはじまって、これがもう本当にキモイ。 「良がやらせてくれないから当時から二丁目でゆきずりの相手とやってた。それが良にバレたら汚物を見る目で見られた。おれの性欲をどうしろというんだ!」という、キモいとしかいいようがない主張をしはじめ、しかも「ドSだからいやがる相手に血を流させながらガッツンガッツン突きたい。喜ばれるとむしろ萎える」とさらにキモい主張をはじめ、そんな風間さんは二丁目でモテモテという、もう二丁目バカにすんなって感じだ。なんだよホモは一人の相手とつきあうよりは、いろんな相手とやりたいセックス好き人間が多いとか、そういう決め付けた主張は。怒られるで、ホント。 そんな二丁目でゆきずりの男にしゃぶらせてたら「そいつはやめときな」と声をかけてきたインテリヤクザの黒須さん。相手の男が逃げてしまって風間さんは「じゃあ硬くなっちまったおれのこれをどうすんだよ。お前がやらせてくれんのかよ」と無茶苦茶なP意欲を主張し始め、これに対し武闘派の若頭でもある黒須さん。 「それは……私でよければ、是非」 なにこのうほっ、いい男的展開。笑い所? 笑い所なの? その後は黒須さんの「Mじゃないけど痛くないとダメなんです」発言のもと、リアルゲイでもやおいでもBLでもJUNEでもありえないような、よくわからんセックスファンタジーが延々と展開。 多一郎さんを思わせる黒須さん、どういうキャラなのかと思ったら、どう見てもただのMのオカマでした。なにこのガッカリ感。展開の妙とか人間関係の妙はまったくなく、ただ「ドMだから」という理由だけで風間さんとくっついてアンアン云ってるという、本当にもう、薫の欲求不満にはつきあってられんですたい! 何度も何度も云っている気がするが、薫はとにかくエロ禁止。少なくともSEX禁止。それと音楽話も禁止。いちおう軽くでいいから起承転結を考えてからかきはじめる。この三点を押さえて欲しい。 押さえて欲しいのに、今作はこの三点のみで構成されていた。 アイデアというか、初期設定自体は、恥ずかしいながらも昔の栗本薫と似たようなもんだったんだが、進めば進むほど頭が痛くなってくる晩年のクオリティをフルボッコに発揮。 とにかく無駄(本当に無駄)に長い、お婆ちゃんの愚痴と欲求不満をねちねちねちねち聞かされるだけの話になってしまっていた。 生き甲斐を失った作曲家が、過去のコンプレックスと向き合い、どん底まで落ちて再生していく、というストーリー自体はいいし、そこに「音楽家になれなかった自分」「作家としても中途半端な存在だった自分」をオーバーラップさせていたのはいいが、その後をまったく突き詰めなかったせいで、なんにもならない。 「結局マーケティング・リサーチだけで作っていた」「作曲家というよりはミックスコンポーザー」「ロック畑ではジャズが、ジャズ畑ではロックがすごいと云っていたこうもり野郎」「でもそれなりの作品を早くつくりあげたし、天才たちよりも大衆性はあった」などなどの、明らかに栗本薫本人の作家活動のことである部分を、もっと冷徹につきつめるべきだった。 そこを突き詰めないで知識もないのに天才音楽家幻想とヤクザ幻想に走り、単なるセックスファンタジーに逃げ込んでたら、ほんと、愚痴にしかならんだろ。前半の方を読んでいるときは、そこが突き詰められていくのかと思っていただけに、すべて投げっぱなしで終わって本当にガッカリだった。 文章がぐだぐだで、メリハリがまったくなくて盛り上がりに欠けることはもう諦めるけどさ、内面描写はもうちょっと突っ込んでしてくれよ……無駄に内面吐露が多いけど、同じことのくり返しじゃねえかよ…… 途中、何回か透が出てくるんだが、これもなんかキャラがキモくなっていた。 全然似合わない敬語しゃべってるのもなんかキモいし、やけに綺麗なジャイアン的違和感のある綺麗さをたたえていたのが心底いやだった。透なのに全然だるそうでも投げやりでもないって、お前ほんとに作者かと。もう一回前作を読み直してこいと。 そういう意味で、キャラ小説としてもあんまりな出来。 長さ的には死期の迫った晩年の大作ということになると思うのだが、それがこんな投げっぱなしのぐだぐだしているだけの作品で、本当にいいのか栗本さんよぉと問い詰めたくなる一作。
エッセイ。 07年末から08年初頭にかけて、国立ガンセンターへ入院した時の闘病記。 あずさはご飯が大好き! ……というのが第一印象。 もうむしろ病気のことよりご飯のこと書いてる部分のが多いんじゃねえか? という按配。 入院したら絶食を申し渡されて食いしん坊(と自分で書いていた)のあずさはいや〜ん、という話にはじまり、手術あけには病院食が出て「三分粥ウマー」で、数日したら飽きて「マズー」で、仕方ないからヨーグルト食べて「ウマー」で、合間合間にグルメ本読んで「今はこんなの食べられないけど、べ、べつに食べたくないんですからね!」とツンデレして、外の築地市場眺めては「ほ、ほんとにあんなところ行きたくないんですからね!」とツンデレして、「納豆!納豆!」と普段の献立に思いを馳せて、大好きな精進料理エッセイの作者のことを延々と語り「ソ・ウ・ル!ソ・ウ・ル!」とソウルフード宣言して、退院が許されたら「米が食える米が食える米が食えるぞー!」と小躍りしながらうちの米自慢をし、退院して一ヶ月経てば母と一緒に三時のおやつにケーキ食べて「ほ、ほんとに一口だけなんですからね!」と云いながら和菓子は平らげるお茶目っぷりも発揮しながら「来年の上海ガニは食べれるかしらん」と心配するという、一冊のエッセイでこれだけご飯のことが書けるあずさの才能に嫉妬。 つうか60の旦那と25の息子との三人暮らしで米10キロを十日で消費は異常。お前ら全員食いすぎ。毎日のように吐くほど食ってるおれが月5キロ程度だというのに…… そんなご飯の話の合間合間に、病気に関することが書かれているんですが、とにかく「あれ?この話さっきも見たような?」ということの繰り返しで、ご飯の話はバリエーション豊かなのに、病気の部分はわりと似たような話が多く、病気をしてのちの精神面での話は「どんどん書くよー」の一点張りで、別にいつもと変わらない。 退屈だから本を読んでたという話もちらほら出て、その項を読んで思ったことは「おれ、梓と読書の嗜好がまるでちげえな」ということだった。 つうかミステリーにもSFにもファンタジーにもまるで興味がないってのはどうなんだろう、と素直に思った。 よしながふみが大好きだし。テレプシコーラとか楽しみにしてるし(おれは全力を出さない山岸涼子を否定しつづけるぜ!) それでもまあ、昔の文学名作を読み直したのは梓でかしたって感じだった。 でも、やっぱ全体的に文章がいただけない。 最初の方は、なにか思うところがあったのか、ずいぶんと改まった丁寧な書き方で、まったく似合わなくて逆に気持ち悪い感じだったのだが、数十ページ後にはもういつも通りの嗚呼神楽坂。 やっぱりネットの日記ではないエッセイで(爆)とか顔文字とか使って欲しくないというのがあるし、お願いだから自分の文を校正して欲しいというのがある。一文に二回も「まあ」とか「とにかく」とか入れないで欲しい。うっかり入れてしまうのは理解できるが、ちゃんと直せよ、そういうの。 作者の発案なのか編集の仕業なのか、闘病記なのに日付が前後しているのも意味がわからない。 病状が前後してわかり辛いし「前にも書いたように」という、その「前」がページ的には後ろにあったり、とにかく日付を入れ替えた意味がまったくわからない。 このように崩れた文章を見ていると、同じ内容でも昔の文章なら感動できたんだろうなあ、としみじみしてしまう。 やはり文章家にとって文章の劣化は致命的だ。ストーリー物ならまだしも、エッセイなんてこの作中で梓が云っている通り「作者と膝つきあわせて話しているようなもの」だから、その話ぶりが魅力的でなければ聞きたくなるはずもない。 つうか、作中で「ダメなエッセイが多い」と書いていたが、よりによってお前が書くな、お前が(笑)という気持ちでいっぱいになった。説得力のなさがマキシマム。 もしかしたら、これが中島梓としての遺作になるのかもしれないなあ、と思うと、本当にこれでいいのか?これが遺作でいいのか?という気持ちが溢れ出して止まらないので、排水溝に流して捨てた。 自分には問題なかったが、せっかくのガン闘病記という一般性のある題材なのに、文の内容が栗本薫・中島梓の活動や著作を知悉していること前提で書かれており、注釈も全くないため、完全にファン向けのものとなっているのが気になった。 そりゃあさあ、作者も出版社もそれ以上のことは望んでないのかもしれないけど、やっぱり一冊の闘病記として独立した作品であって欲しいよ、ぼくは。 梓のエッセイ、昔はそれ単品でも楽しめたじゃん。栗本薫作品についてはサラッと説明したり注釈入れたりもしたじゃん。 前向こうよ、上を見ようよ。 最初のかしこまった書き方、全然こなれてなかったけど、あとのよりはマシだったよ。せめてあれくらいのやる気出そうよ。 やっぱり薫に足りないのは、能力よりもやる気だよ、丁寧さだよ。 書きつづけるのは素晴らしいことさ。病床でも書きつづけたことは評価に値するよ。死ぬまで書きつづけるという宣言も美しいよ。 でも、おれは、垂れ流した十冊よりも、気合の入った一冊が読みたいよ。 せめて、あと一度だけでいい。栗本薫の新作で、おれは泣きたいよ。 |