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栗本薫 1980年


 グインサーガ3 ノスフェラスの戦い

007 グイン・サーガ3
80.03/ハヤカワ文庫

 グインサーガ4 ラゴンの虜囚

009 グイン・サーガ4
80.06/ハヤカワ文庫

 グインサーガ5 辺境の王者

011 グイン5
80.10/ハヤカワ文庫

 絃の聖域  うなぎ

010 絃の聖域
80.08/講談社
82.12/講談社文庫
97.04/角川文庫
12.05/講談社文庫 新装版

【評】うなぎ


● 名探偵登場
 長唄の安東流家元の邸宅内で、女弟子が何者かに殺される。安東流では旧家ならではのしがらみと憎愛がもつれあい、どんな事件が起きようとも不思議ではない状態であった。
 警察もお手上げの事態の最中、家庭教師として雇われた青年、伊集院大介が、複雑に入り組んだ安東家の内実を解き明かしていく。
 名探偵・伊集院大介登場。
 
 栗本薫初の本格ミステリー長篇にして伊集院大介シリーズ第一弾。薫先生が書きたくてたまらなかった名探偵物の登場だ。
 吉川英治文学新人賞受賞作品でもある。ちょっとあなた、信じられます? 吉川英治文学賞ですよ? 吉川晃司文学賞じゃないですよ? あの薫先生が吉川英治文学賞だなんて、いやあなた、昔はなにが起こっているかわかったものじゃないわねえ。壁に耳あり人に歴史あり。
 ところがどうしてどうして。しっかり吉川英治文学賞にふさわしい格調高い作品なのですよ。もう一度云いますよ? 格調高いんです、この作品。あの栗本薫の作品なのに格調高いんですよ! いやあ、晩年から入った新規のファン(がいるとしたら)が聞いたら驚くだろうなあ、うふふふふ。えへへへへ、あはははは。
 設定自体はオーソドックス。ある長唄家元の邸内で起こった女弟子殺人事件。状況は内部犯を指している。ところがその屋敷は夫婦親子すべてがお互いを犯人と名指しする憎愛の渦巻く家だったのだ。
 という感じで、怪しげな美貌の婦人ありーのホモの美少年ありーので、いかにもなキャラ立て道具立て(というか横溝正史作品でよく見たような設定)で事件の謎が深まっていき、最後に浮かび上がってくるのは芸事の怖さであり美しさであるのだ。
 ミステリーとしてみたときには、驚きという意味でのインパクトはない。しかし本作は、ラストシーンの格調高さ、美しさでは比肩するものの少ない芸道小説の傑作であるのだ。
 長唄に興味もないしまともに聞いたことのないおれにさえ(あるいはだからこそか)三味線のかなでる悲しくも美しく冴え渡る凛とした音色がたしかに聞こえ、そして残響となって耳に残った。
 あの音色のためだけにでも読む価値のある大作。文字だけで構成されているはずの小説の向こうから音楽が聞こえてくる瞬間というのは、たしかにあるのだ。
 一作目であるため、伊集院大介シリーズとしての魅力は薄い。伊集院大介自身も、この時点では金田一耕助となにがちがうのかわからないレベルだし、助手役との軽妙なやりとりがあるわけでもない。が、逆を云えばシリーズ物のくさみがないため作品としての完成度があがったと見るべきか。
だが今作の最大の価値は、松本清張全盛時の、だれもかれもが社会派ミステリーで時刻表ミステリーでご当地旅情ミステリーで、という時勢の中で、乱歩正史の路線を継承した作品を作り、名探偵を産み出したことにある。
 八十年代後半に新本格ブームが起こるまでの数年間、名探偵の系譜を守っていたのが栗本薫と伊集院大介であることを忘れてはいけないだろう。
 しかしそれにしても、ラスト「クオド・エラド・デモンストランドゥム」と告げ、顔を赤らめる大介は萌えるでございますな。



 セイレーン

008 セイレーン
80.06/早川書房
82.05/ハヤカワ文庫

【評】うな(゚◎゚)

● 拙く熱い魂を感じる処女SF作品集

 栗本薫はじめてのSF単行本である本作。と云っても、後述の『ケンタウロスの子守唄』などがSFマガジンに掲載されたのが先なので、初のSF作品というわけでもない。
 ともあれ、当時SFマガジンの編集長だった今岡清くんが、「SFなんて無理よ」とおびえる薫をだましだましに書かせ、おいしく原稿を頂戴した、そんな一連の初期SF作品です。今岡くんは薫先生本人をもおいしくいただいたわけですが、そういう下世話な話はあとにまわすとして。
 収録作は『セイレーン』と『Run with the Wolf』の中編二作。

『セイレーン』
 西暦二五八六年、あるスペースマン(という単語のなんと古さ懐かしさよ!)が宇宙でなぞの女の歌声を聞き、それを長年追い求めていく。
 一方、一九七八年の日本では、突如としてあらわれた新人歌手セーラが未曾有の大ヒットを記録し、人々はなにかにとりつかれたようにセーラを崇拝していく……
 現代日本と遠未来の宇宙とが、セイレーンの魔女によってつながっていく話……ではあるのだが、正直、つながってねええええええ! 未来の部分いらねえええええええ!
 テレビ局のADを語り部に、あらゆる詳細が不明な十代の少女歌手が芸能界をのしあがっていく様子は、その不気味さと神聖さとテレビ時代の軽薄さとが絶妙に交じり合い、「現代の巫女」としての歌手の姿をうまく描いている。
 具体的になにをしているわけでもないが、なにかが起きる予兆を感じる描写は栗本薫の十八番とも云えるもの。
 現代で描かれた因が遠未来で果として結ばれる……のならば見事な話だが、なんか謎の魔女が何千年も主人公を追いかけまわしていたという、何で追っかけているのか理由のまったくわからないオチになっているので、まったく釈然としない。
 いや、あるいは聞くものすべてにそう思わせる、という話なのかも知れないが、それだと未来の話が意味不明になるし、要するにわけわかんないです。
 雰囲気は悪くないんだけど、本当に雰囲気しかない。ある意味、栗本薫のSFを象徴するような話ではあるのかもしれない。
 それにしても、作中でセーラのデビュー曲の売上が三百万枚から四百万枚、場合によってはそれ以上、ということで異常さを強調していたが、これは今となってはちょっと虚しいというか……。まあ、この小説から二十年後、デビューしてすぐにアルバムを七百万枚以上売り上げる歌手があらわれて、それでも別になにも日本も音楽業界も変わらないなんて、予想できるはずないから仕方がないよね……
 ともあれ、この作品自体は新人が書いた、という点においては評価できる、というかこの後が期待できる一品ではあるが、いまとなってわざわざ読む価値があるのかと云うと、まったくもってないと云わざるを得ない、微妙な作品だ。

『Run with the Wolf』
 こちらの方も、完成度という点では数多ある国産SFの名作佳作の中で、敢えてとりあげる必要のある作品ではないだろう。が、こちらの方は新人らしい肩に力の入った、青臭い力作であり、自分はいまでもけっこう好きである。
 二十世紀、世界中で次々と異形の子供、デヴィル・チャイルドが生まれ、人々はデヴィル・チャイルド狩りを開始し、やがて巨大な壁をつくってその向こうへと姿を消す。デヴィル・チャイルドだけが生きる荒野の日本に取り残された海兵ルーと田村老人は壁を目指して歩きつづけるが、その最中にあまりにも巨大なデヴィル・チャイルド、モンスターベビーに出会い、かれらに対して理解を深めていく……という話。
 種とはなにか? その行く先とは? 進化とは? かつてSF界の巨匠達が幾度も挑んだ壮大なテーマに、若くして挑もうという気概がまず嬉しい。
 小松左京はおなじような頁数で壮大な名作『神への長い道』をものしたが、しかし生来の饒舌体というか冗長文体の栗本薫が、こんな壮大なテーマをこの頁数でおさめられるかというと、もちろんそんなことはなかった。
 廃墟と化した日本からはじまる語り口こそひきこまれるが、肝心のデヴィル・チャイルドやモンスターベビーの奇妙さや魅力に関しては薄口でありがちの域を出ておらず、クリーチャー好きとしてはまったく物足りない。
 テーマに関する部分も、登場人物の一人の、データもなにもない牽強付会にすぎる強引な屁理屈――というか、もはやうわごとに近いしゃべくりだけに終始され、説得力はまるでない。もちろん斬新さとかもまったくない。
 じゃあ駄作なのかと云うと、なぜか心を打つ作品ではあるのだから困ったものだ。

 そうだ――われわれは、そうとしか、できなかった。
 愚かしく、むなしく、小さく――だが、こうとしかあれなかった。
 こうさだめられ、そのままにそう在り、そして滅びまでを生きるのだ。
 わるくない――それもまたわるくはない。

 この数行からはじまるラスト。この希望と絶望とがともにあり、美しさをすら感じさせる終わり方は、妙に力強く感動的だ。先に挙げた名作『神への長い道』は生への力強さに満ちた終わりを見せるが、それ似て非なる感動を今作は与えてくれる。
 この感動がなにに起因するのかと云えば、それは「若さへのまばゆさ」としか云いようがない。その繊細さも大仰さも前向きも、すべて若さゆえだ。
 だからこそ、これぞSFだ、と思う。SFとはかつて若者のつくりあげた文化であり、若者の武器であった。少なくとも、この作品が発表された当時はそうであったろう。
 若き栗本薫が、そのつたなさや無知無謀を恥らうことなく、己のSFという武器をふりあげた。今作はそういう作品であり、だからこそ完成度こそ低くとも力強く感動的なのだ。ファンとしては愛さずにはいられない。



 幽霊時代  

013 幽霊時代

80.11/講談社
85.03/講談社文庫

【評】うな


● 普通のSF短編集


 早川からSF単行本を出したかと思えば、それから半年も経たずに今度は講談社から出したSF短編集。デビューして二、三年で、この出版社をまたにかけたフットワークの軽さ。この尻軽さこそがベストセラー作家としての栗本薫の最大の武器だったのだろう。
 収録作は『幽霊時代』『時計台』『ケンタウロスの子守唄』『水の中の微笑』『エンゼルゴーホーム』の五編。

『幽霊時代』
 ある日突然、生きた心地がしなくなり、やがてだれにも認識されなくなりひっそりと消えてしまうという奇病、幽霊症候群はまたたく間に全国を蔓延していく。果たしてこの奇病の原因は?
 典型的なワンアイデア物。科学的論証などが一切がない観念的な説明はじつに栗本薫らしい。「存在感」などというものに焦点を当てるのは、ヒキコモリ系なのに自尊心虚栄心の強い栗本薫らしい題材の選び方で持ち味を活かしているし、事実ラストシーンもうまく決めてはいる。が、のちに何度も連発する「いつものアレ」と云えばそれで済んでしまうような手癖感抜群のリリカルエンドだし、その「いつものアレ」をもっとうまく決めた作品が何作かあるので、この作品自体の印象はうすい。奇しくも話の題材とおなじように薄くて、うっかりすると忘れてしまう。表題作なのに。

『時計台』
朽ちた時計台の夢見た、幽霊と幽霊の恋物語。
滅び去った無人の惑星に鳴り響く、聞くもののない鐘の音。
リリカルSFの秀作である。というかリリカル成分以外になにも存在しない。早くもSFというより乙女ポエムなんじゃないかという領域に突入してしまっているが、ごめんなさい、こういうの好きなんです。

『ケンタウロスの子守唄』
 筒井康隆が作詞し、山下洋輔が作曲、浅川マキがうたった同名曲に着想を得た作品。詞中の「赤い星」「白い星」「青い星」をモチーフに、三つシーンに分けてオムニバスが描かれている。

 シーン1はとある砂漠の星での地球人の生活を描いている。
 地球と異なる生態系を面白く描き、異種族間の愛情ともつかぬ関わりを描いている。砂漠の星を表現するために、文章も渇いたさっぱりとしたものになっているのが、文体で作品世界をつくる栗本薫らしいテクニック。渇いていながら乙女チックなポエジーを感じるところがさすが。

 シーン2はとある奇病の話。
 人体が石となり、際限なく質量を増していく奇病、ホルツ症候群。悲しみにくれる同僚がその奇病にかかったとき、英雄と呼ばれた女がとった行動は……という話で、病気の正体が強烈な自閉症であり、ブラックホールとはこの発病者のなれの果てであるのかもしれないというオチは、個人の内面を壮大にとらえる栗本薫らしさが出てて良い。

 シーン3は、永遠に生きる宿命を背負った不死身の女が、宇宙を渡る巨大なジェリー状の生物に遭遇する話。
 理由もわからぬままただ宇宙をさまよい続ける女と、他者という概念をもたぬ超巨大な生物。それぞれの異形の孤独が叙情的に描かれている、やはり栗本薫らしい好編。
 
 三つのシーンかそれぞれがまったく関係のないストーリーではあるが、作者の思うSF的情景を端的に描いたものがこのオムニバスなのだろう。いずれも新しさこそ感じないが、SF読者として熱心であり、SFの空気を大切にしていることがよくわかる三篇。
 しかしさすがにまったく三篇につながりがないのは、一作としてまとめる必要があったのだろうか?
 これが栗本薫のSF処女作であるので、テンパっていろいろ詰めこんでしまったのかもしれない。しかし発表が『SFマガジン』の昭和五三年十二月号というのだから、今岡清がどれだけ素早く栗本薫に接触していたのかわかろうというもの。まったく畑のちがう乱歩賞作家をこの早さで引っ張ってきたのだから、優秀ではあったのだろう。
 それにしても、なにを根拠にひっぱってきたんだろう……若いからSF書けると思ったのかな? 当時の新人にはみんな声かけてたのかな? 若い女だから原稿依頼を口実に声をかけただけなのかな? もはや邪推するしかないが、この作品がなければSFマガジンとのつながりはなく、ひいては『グイン・サーガ』もなかったかもしれないと考えると、結果的に今岡くんは優秀だったのだろう。
 また、一作目から尊敬している筒井康隆からタイトルをもらうなど、この遠慮のなさというかあけすけな好意の示し方がすごい。こういうところに可愛げがあったよね、昔の栗本せんせーは。普通、大好きでも頼めないもん、そんなの。このミーハーさは本当に武器だったなあ。
 作品内容とは関係がない、そんな事情にばかり思いを馳せてしまう『ケンタウロスの子守唄』でした。

『水の中の微笑』
 いままでも散々やってきといてなんですが、短編というのはどうも短くなればなるほどオチにかかる比重が強いので、どうもネタバレにならざるを得ないのか辛い。オチが大事な作品だと読む意味を無くすんじゃないか、という。
 でもまあ、いまさら栗本薫の短編でネタバレされたくないという人も少なかろうから、やはり気にしないでおく。
 で、今作もそんなオチだけの作品で、堕胎された子が世界最強クラスのエスパーだった、という話なんですが、ラストの残留思念だけとなった巨大な胎児が空に浮かんでいる映像がすべてです。それ自体はけっこう悪くない。
 しかしこの巨大な赤子というイメージ、栗本薫にとってはよっぽど象徴的なものなのか、いろんな作品でくりかえし使われている。先に述べた『Run with the Wolf』のモンスターベビーもそうだし、もっとも印象的なものでは『魔界水滸伝』において、クトゥルー神話最大の神アザトースもやはり宇宙に浮かぶ巨大な赤子として描かれていた。
 たしかに巨大な赤子というものはそれだけで怖いし不安になるが、あれはなんなのだろうか?

『エンゼル・ゴーホーム』
 ある日突然、各地に天使が現れておせっかいをはじめたものだから、街中がそりゃあもう大騒ぎさ。……みたいな感じの、フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』のパロディ作品。
 パロディ作品らしく、よくも悪くもすべっている感じがたまらない。特にSF(サド・フェチ)マガジンの居間岡くんは愉快。最近は楽器じゃないとエロさを感じないとか、そのいじりっぷりに当時の二人がいかに仲が良かったかというのがうかがえる。
 話自体は、パロディとしてうまいとともに、善行を強要されることによってむしろ社会が混乱するという皮肉な仕組みはフレドリック・ブラウン作品にもつながる精神をもっているのも良い。
 この本のあとがきとして「『エンゼル・ゴーホーム』のためだけのあとがき」と称されたものが載っているのも面白いし、その内容が『火星人ゴーホーム』の説明と、その『火星人ゴーホーム』のあとがきに準じた内容になっているのもにやりとさせてくれる。
 あとがきまで含めて、パロディ作品としてよくできた短編と云えるだろう。もっとも、それだけに原作を知らないと楽しさがわからないのは否めない。現に自分がフレドリック・ブラウンを知らなかった初読時にはあまり面白さがわからなかった。

 総じて云うと、若いSFファンが書いたものらしい好篇ぞろい。ではあるが、いずれの作品もアイデアとしてはあまり新しくなく、物語としてもさほどのものではない。普通に読めるが、あまり心には残らない、ありきたりのSF短編集の域は抜けていないように思える。
 しかしこの短編集で一番面白く作者の個性が発揮されているのは巻末の解説だ。
 解説の著者名が旦那の今岡清であるだけでもちょっと笑えるのに、それを代筆しているのが妻の中島梓だというのだから、もうわけがわからない。
 それでもって「そのころから、私は彼女が世の中の人の見る目とは裏腹にたいへんシャイでナイーヴな一面をもっていることを知らされていたわけである。これ本人が書いていると思うすごいわね」などとぬけぬけと書いている。このようなライブ感楽屋感あふれる文章というものを初読時の自分はそれまでに読んだことがなく、こういう面にはなかなか衝撃をうけた。
 というのも自分にとって、文章というものは教科書に載っているような「立派」なものでなくてはならない、という固定観念が知らずのうちにあった。それを壊してくれたのが栗本薫のこうした文章と筒井康隆の実験性だった。好きな作家、尊敬する作家、嫉妬する作家は数あれど、自分が栗本薫と筒井康隆のただ二人を神と崇めている由縁である。
 ちなみにこの解説で栗本薫は「筒井康隆、小松左京、新井素子、池波正太郎、各氏の文体模写には自信あります」と書いているが、百歩譲って他のご三方はともかく、新井素子には謝れと云いたい。一番簡単にそれっぽくできるけど、他人がやると気持ち悪いだけなのが新井素子文体だし、栗本薫のにゃんにゃん文体はシャレんなんないキモさでしょうが!



 あずさの男性構造学

徳間書店 80/10

【評】うな

●あずさ、大いにはしゃぐ

 中島梓の初エッセイ集。
 あちこちに書き散らしたまとまりのない文を集めたもの。
 竹宮恵子・糸井重里・五木寛之との対談に、好きな男性作家・タレントを語るコーナーに、好き勝手に男について語る男性構造学と、実に実に書き散らされている。 ゆえに、あとがきにある通り、かるーく、そこそこ楽しんで読むもの。そういう意味では、ちゃんとコンセプト通りともいえるエッセイ集。

 悪い意味で晩年にまで通じる中島梓のすごいところは、文章のもつおしゃべり感覚。
 どれだけ饒舌文体を気取ったところで、普通はだれだっておしゃべりと文章の間にはいろいろな隔たりが生まれてしまう。文章を書くということは、どれだけ勢いをつけても、おしゃべりほどには無責任に言い放つことはできない。無責任に言い放とうと意識した文章になってしまう。
   ところが梓はちがう。
 しゃべり言葉とまったく等速で、まったく同じだけ勢い任せの、まったく同じだけ無内容な文章が書けてしまう。これは稀有な才能だ。しかしそれゆえに、おしゃべりがつまらなくなると、そのまま文章もつまらなくなってしまうわけなんですが。

 絶妙に二人ともあさっての方向に向かって話している竹宮恵子との対談。
 勝手になれなれしく都会派ぶってる糸井重里との対談。
 梓がいちいちやりこめられてるのが楽しい五木寛之との対談。
 要するに「わたしは痩せてる悪い男が好き」ということしかいってない男性構造学。
 それぞれ愉快だが、圧巻は好きなタレントたちについて語る新男性論。一人につき3P程度の小コラムなのだが、まあそのおしゃべりの無内容さとミーハー具合ときたら惚れ惚れとしてしまう。バカをさらけ出すのは立派な知性のあり方だということをしみじみと感じさせてくれる。
 年上の大物たちに言いたい放題。それでいてかれらに対する確かな愛を感じる。実にミーハー。
 そんでもってまた、大物たちに可愛がられてるんだわ、梓。
 阿久悠だ久世光彦だ野坂だ小松だ半村良だといちいち大物。彼らに実に可愛がられているし、可愛がられるのがうまいんだ、この時期の梓は。
 実際、この時期の梓は(外見は知らぬが)かわいい。ぷりちーと云ってもいい。
 最近、年代を遡るように梓のエッセイを読んでいるわけだが、文学の輪郭は例外として、見事に若ければ若いほど梓の言動はかわいい。 つまり老いていけば行くほど可愛げがなくなっている。これはもう、まったく外見によらない、文章のみによる印象なので、如何ともし難い。残酷な現実だ。
 ともあれ、はしゃぐ小娘が可愛い、新人らしいエッセイ集である。

 それにしてもこの梓、藤竜也に萌え萌えである。
 梓は藤竜也をやたら渋い・ダンディ・理想だといっているが、そこに書かれている竜也さんの言動ときたらどう考えてもド変態にしか見えないからたまらない。おれ、いままで見てきたすべての人間の中で、藤竜也ほど<変態紳士>という尊称が似合う人間はいないと思うよ。藤さんのただずまいはガチで変態でマジで紳士。みんなも『悪魔のようなあいつ』を見るべきなのだ(結論)





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