現代を舞台とした短編集。
「探偵(悲しきチェイサー)」「イエロー・マジック・カーニバル」「ワン・ウェイ・チケット」「天国への階段」「新宿バックストリート」「ポップコーンをほおばって」「おいしい水」「軽井沢心中」「イミテーションゴールド」収録
ほとんどの作品が、同名の曲をモチーフに作られている。
「探偵(悲しきチェイサー)」
モチーフとなった曲は沢田研二の同名曲。
理由なんかありゃしない。
ただふっと、私立探偵になってみたいな、とオレは思ったのだ。
という出だしに象徴される、でたらめを生き方をした小物ちんぴらの末路を描いた作品。
いまにうまくいくさと云いながら、ほこりまみれの国道を二人っきりで歩きつづけた武司と次郎。
ある日の思いつきからはじめた探偵業でつかんだ、一発逆転のチャンス。しかし、浅はかな二人を待っていたのはチャンスなどではなく、裏社会の罠に過ぎなかった……。
だれにも馬鹿にされ相手にされなかった二人のチンピラの、それでも二人だけにはあった確かな絆。
すべてが手遅れになったあとで、命を捨ててやっと報いた最後の一矢。爆発のフラッシュバックの向こうに広がるあの国道。
どこがどう自分のツボを突いているのかもいまいちわからんが、無性に泣ける。阿久悠的男の世界を、乙女ビジョンを通したらこうなるのだろう。
ただ、この曲のイメージは、同じジュリーならアルバム「ストリッパー」収録の「DIRTY WORK」の方が近いだろう。あの曲も好きだ。
「イエロー・マジック・カーニバル」
都会の片隅にある、小さなバーのとある一日の話。
特に事件はなく、都会的な話を肩肘張らずに「都会ってこんなもんさ」みたいなさりげなさが、なるほどYMO的といえばYMO的。
「ワン・ウェイ・チケット」
一転して、都会を夢見て上京してきた田舎者が、都会のどこにでもある事件で消えていく話。
「ぼくら」シリーズの石森信を主役に、冴えない田舎モンたちに「アンタらバカだよ」と優しい視線を投げかけている。しかしふっるいなこの都会。実際問題、ふるいんだけど。
「天国への階段」
一つの復讐劇の幕切れ。ままならぬ愛にはじまった因果はままならぬ愛によって悲劇におわる。
内容自体はたいしたものでもないが、哀感のただよう作品の空気は大好物です。
「新宿バックストリート」
自分を誘拐した相手にほれてしまった少女と、抗争に明け暮れるしかないヤクザと、二人の物語にわりこむ資格のないバーテンと。
新宿のバックストリートであった、小さな失恋の物語です。それ以外になにを云えばいいのやら……
「ポップコーンをほおばって」
幼女殺人事件の容疑者は一人の若い青年。なぜ彼は幼女を殺さねばならなかったのか……。
世界に拒絶されつづけたと感じた青年の、行くあてのないやみくもな怒り。
「だれのせいで」も「だれに対して」も関係ない、ただ自分の怒りを知らしめたかった若さゆえの暴走。若さという名の呪詛。
そんな無茶苦茶な、と思っても、そんな無茶苦茶なのが若さだったりするのです。
「おいしい水」
都会で生きるキャリアウーマンは気まぐれにバーで青年に声をかける。それは彼女にとって最後の「青春」のチャンスであったのだが……
無償の理解を求める若さと、その素晴らしさをわかりながら最後に女を踏みとどまらせる現実という名の裏切り。
ほんと、女の気まぐれわからんわー。
「軽井沢心中」
ただ一夏の経験したかっただけなのに、お互いのやりたい盛りのテンパリ具合が悪い方悪い方に空回りして、気がついたら好きでもない相手と心中することになっていく軽いんだか重いんだかわからない展開がとても「ゲンダイのワカモノ」という感じで、コメディホラーみたいな作品。お互いの独り言の繰り返しで進んでいく見せ方が面白い。
「イミテーション・ゴールド」
低俗週刊誌の記者が、スキャンダル記事をでっちあげるためにアイドルの家のゴミ箱を盗もうとはりこみをする話。
ゴミを盗もうと必死になっているシチュエーションの滑稽さもさることながら、そんなくだらない生き方も「アリ」と云いたげな陽気な雰囲気がいい。
特にラスト、ついにゴミの奪取に成功した三人が車内にゴミを撒き散らしながら哄笑し、「こいつが俺たちの手に入れた、たったひとつの、ほんとうの黄金なのだ」と夜明けの街を爆走する姿は、なにかこう、生きる希望です。
そうとも、まがいもののイミテーションの世の中だって、そこで生きてるやつらが自分で勝ち取ったものは、すべてが本物の黄金さ。
総じて云うと、とても都会な感じの素敵やんな短編集。
個人的には好き。
| 神変まだら蜘蛛 (角川文庫 (5981))栗本 薫角川書店 |
伝奇小説。
栗本薫の伝奇小説って、どの作家の影響なんだろう? ということをいろいろ考えた結果、手塚先生の「どろろ」とか横山先生の「伊賀の影丸」とか、白土三平の「カムイ伝」とか、まああの辺の忍者漫画だろう、という結論に落ち着いた。
ところで栗本薫が昔から自分ではあまり気づいていない、むしろ逆に優れていると思っている欠点に、クリーチャーやモンスターの描写、というのがあります。
描写、というのかな? とにかくオリジナルモンスターが人間をベースにし過ぎていて、「べつの生態系のなにか」になっていないから、価値観や存在理由が人間と相容れないんだからしょうがない、という虚無感にも似た絶望感を感じられないのです。つまり妖怪どもがエロ可愛くないのです。
だからして、伝奇がいまいちになってしまうのです。
で、この神変まだら蜘蛛ですが、どういう話だったのかまったく覚えていません。たしか「どうでもいい」と思った気がします。
手元にないのでこれくらいでいいですか?
81.07/講談社
83.11/講談社文庫
【評】うなぎ
●江戸女の情の強さと怖さを描いた秀作短編集
時代小説。短編集。
ちょっと高く評価しすぎな気はするが、栗本先生の時代小説でどれか一冊ならこれになると思うし、のちに多用される「薫の心中ロマン」のたいていのパターンはこの一冊でけっこう網羅できると思うので、おまけで「うなぎ」ということで。
『女狐』
「お前、私と相対死しておくれでないか」
ある大店の奉公人であった伝次は、内儀のお艶に突然そう云われ、心中に巻き込まれる。
その罪から非人として溜に暮らすことを余儀なくされた二人であったが、伝次はお艶を手に入れたと思うと幸福であった。しかし、どんな愛欲のかぎりを尽くしてもお艶は伝次にこたえることはなく……
虚無を感じるお艶の絶望が全編を支配し、愛欲の狂気に陥っていく伝次をうまく描いている。
凄惨なラストシーンには美しさをも感じる。
☆心中CASE1 なかなかこたえてくれぬ相手に思いあまっちゃったよ心中
『お滝殺し』
年増をだまして貢がせてばかりいる小悪党・三次は、今回ももまた大年増のお滝をうまいことひっかけたのだが、お滝はなぜか寝たきりの息子のことに関してだけ三次を拒絶し、あわせようともしない。豪を煮やした三次が忍び込んだお滝の家で見たものは……
鬼子母神の話である。子を愛する母親の気持ちと、男を愛する女の気持ち、そのどちらもが深すぎるゆえの悲劇である。
やっぱり心中して終わるラストには「またかよ!」とツッコミを入れた。
☆心中CASE2 おれがいま楽にしてやるよ心中
『あぶな絵の女』
見る者に異様な興奮を与える名もなき画家のあぶな絵。その絵のモデルと偶然に出会った主人公は、女をつけまわすのだが……
不能であるがゆえに魔性の腕をもつ画家の話。
最後でミステリー的なオチがついているのはいいことなのか悪いことなのか。
☆心中CASE3 実は殺されてましたよ心中
『赤猫の女』
無知な人のために説明すると、赤猫ってのは放火魔です。もちろんぼくもすっかり忘れていました。
目明しの源助は、ある夜、以前より江戸を騒がせていた放火魔をついに現行犯でつかまえる。
しかし、犯人は年端もいかぬ少女であった。
八百屋お七をベースとした、というかわりと八百屋お七そのまんまじゃねえの? みたいなお話で、相手を目明しにすることによってよりドラマ性をあげてはいます。でもやっぱりそのまんまですよねこれ!?
本編で唯一のロリ少女のお話なので、ロリ好きは萌えてください。その後に燃やされますけど。
『蝮の恋』
蝮のあだ名で呼ばれる目明し・弥吉は、二目と見られぬ醜貌の持ち主。
性根も悪く、弱いものいじめばかりをしていたため、人々に嫌われていた弥吉は、ある日、女に「悪人面のぶさいく」と罵られる。それが蝮の恋のはじまりであった――
面相で嫌われるという事実にたえがたいため、人々に嫌われるような行動をとっている弥吉萌え。
いや、萌えってのともまたちがいますけど。いやまあ、普通に悲しい話です。自分が好かれているなどと最後まで信じない弥吉と、その疑いを裏切らない現実が。
『商腹勘兵衛』
「どうだ。腹を切らんか」
藩主の自尊心を満たすためだけに切腹を迫られる老人、勘兵衛は、忠義違いだとその誘いをはねのけつづける。しかし、ある日、ほんの勘違いから、十六の小娘、奈美を娶ることになり、奈美の将来を約束することを条件に追腹を承諾するのだが……
「わしは、何で腹を切るのでしょうな。一体何の商いで?」
追腹、などというもの自体がそうではあるが、あまりにも無意味な勘兵衛の切腹がせつない。
珍しくストーカーではない普通の男の悲哀を描いているのでおっさんにも受けそうな佳作。
☆心中CASE4 O・ヘンリー(夫は妻のために、妻は夫のために)心中
『微笑む女』
主計はいつもぼんやりしてなにを考えているかわからぬ娘を無理に嫁に出したのだが、婿は藩政改革を企むテロリストであった。しかし娘はそれを知っても動じることはなく――
わからん。この娘がなにを考えているのかさっぱりわからん。
この「鈍いんだけど内心ではなに考えているかわからず空恐ろしい娘」というテーマは、なにか栗本先生にも思うところがあるのか、デビュー前にも一本書き、その後リメイクして別の作品として出版もされているのだが、本当になにを考えているのかまったくわからん。いや、そこが面白いんですけどね。でもなんなんだろう、このテーマ。
『心中面影橋』
ある橋のたもとで夜鷹をしていた女が、ある夜、声をかけた男に名前を告げると、「あんたを探していた」と云われるのだが……
もっとも栗本薫らしい作品かな。
男の真意をはかりかねるサスペンス調の前半は興味をひき、破滅を感じさせる後半は悲劇的なホラーでもある。
いろいろあったけど、とりあえず心中しました、的な感じが清清しく栗本薫。けっこう好きです。
☆心中CASE5 遊びの相手にマジになられちゃって「一緒に死のう」心中
……いや、やっぱちょっと評価高くしすぎたかな? 本当にとりあえず心中してる話ばかりだしね……。
「そろそろ紙幅も尽きるし、収集つかなくなってきたし、いっちょ心中しとく?」「ウッス!」というペヤング的なノリで心中しすぎだと思うの、薫は。
そんな薫の心中パターンを網羅して楽しめるのでお得感はある。これ読めば他の時代物読まんでもええんってことやんな!
SF短編集。
「遙かな草原に…」
ある惑星に降り立った探査隊が見たのは、ミッキーマウスにそっくりな原住生物だった。
思わず一匹連れ帰り、地球についた直後、大騒ぎが起きる。その惑星が跡形もなく消えてしまっていたのだ。
なんかこう、一発ネタで、だからどうしたで終わってしまうといえばそれまでの話で。
ミッキー・マウスって、こんな堂々と単語出して平気なんだっけ?まあ、平気なのか。
個であることの幸せ、未成熟であることの輝きを謳いあげたのは、若書きという感じでよい。
「ただひとたびの」
反逆の罪で彼女が追放されたのは、遥か昔に文明の滅びてしまった惑星だった。
そこで自決を望んでいた彼女だったが、不思議な感覚が彼女を南へと導く。
果たしてこの無人の星でなにが待っているというのか……
あーんー、ふっるー。
悪い意味でも悪い意味でも古い。そんな古さだった。
「優しい接触」
もうずっと長いこと戦争を続けている二つの種族。
その戦いの中、ミラ8は船から放り出され、近くの惑星に不時着する。そこで出会ったのは、同様に不時着してきた敵対種族の人間、ユーリだった。
はじめは反感をあらわにする両者だったが、次第にひれかあい……
ゼントランとメルトランが出会ってデ・カルチャーしたって話。いや、マクロスより古いですけどね、本作は。
でもまあ、マクロスだったのでネタははじまった瞬間にわかってしまったし、新鮮味はまるでなかった。
ただ、小姓制度をもとにした種族の性的な設定は面白みはあったし(まあ、たぶんル・グウィンの『闇の左手』あたりから着想を得たんだろうけど)このくらいのほうが栗本薫のホモ趣味がいい味付けになっている。
「心中天浦島」
17歳のスペースマン、テオは五歳の少女アリスと結婚の約束をする。そして次に出会ったとき、ウラシマ効果により二人の年齢は近くなっていた。
半年の蜜月ののちに再び宇宙に出るテオ。そして次に出会ったとき、アリスはテオより年上になっており、別の男と暮らしていた。
そして百年に及ぶ航海に出たテオを次に迎えてくれたのは、変わり果てた地球でしかなかった……
ウラシマ効果の生む悲劇を「心中天網島」とひっかけてつくられた本作。
そのタイトルゆえにしょうがないんだが、心中するのが作品をつまらなくさせていた。
だってワンパターンだし、栗本先生って、ラストで錯乱させることが多いけど、あんまうまくないんだよね、錯乱の描写が。勢いで押し切ろうとするし、作者が「こいつは錯乱してる」と考えて書いてるから、わざとらしくて怖くないし、気持ちが乗らないんだよね。
錯乱している人の内面ってさ、もっと自分なりの論理が成り立ってるものでしょ。その辺を書いて欲しいなあ、作家として。
とは思うんだが、錯乱を「錯乱ですよー」みたいに書いてしまう人って多いし、多いっていうか一部の異常な人をのぞいてほとんどだし、仕方がないか。しかし、一部の作品ではうまいんだけどなあ、栗本先生。多分、それらの作品では錯乱だと思って書いてないからなんだろうけど。
ま、それはともかくとして、これもオチが二秒くらいでわかってしまうし、スペースマンwという感じだし、主人公のはぐれ者意識がちょっとうざいけど、でもおおむねいい話だ。 >
現代を戯画化して誇張表現した未来の文化はわかりやすくも怖いし、脇役もなかなかいい味出してる。特に同僚のマックスは主人公よりもよっぽどスペースマンの悲しみを出せていていい。特に長い旅立ちを前にして口にする台詞。
これでまたやっと、冬のなかで夏を思い出して、恋いこがれていることができるな
この台詞は人恋しいくせに一つ所にとどまることができない人間の悲しさをよくあらわしている。脇役のこういうくさい台詞が、昔の栗本作品を支えていたんだよな。
「ステファンの六つ子」
銀河の片隅で、ある巨大な種族が組織の末端部分を切り離した。
切り離された組織ははじめて個を得、喜びと悲しみを感じていた。
その頃、地球ではステファンという男が、五つ子となる我が子の誕生を待ち望んでいた。
パンタの同名曲に着想を得たそうだが、ほんとにもう、着想を得ただけで、ストーリーも糞もない。
この内容でこのページ数は長い。あとこの種族の設定はもっと詳しく煮詰めるべきだったんじゃないか? なんて思ってしまうのは、この辺に関してもっとうまい作家を知ってしまったからで。
例えば神林長平は「プリズム」で全体から切り離される末端部分をもっと論理的かつ情緒的に書いて見せたし、小林泰三なんかも異種族なんかを書くときには非常にいきいきと理工学系の知識を交えながら描くのでひたすら感心してしまう。
対して栗本先生は結局文系の、それも偏った知識の言葉頼みでなんとか読者を騙くらかそうとしているから、ちと無理があるんだよね。
話の〆方も無理があるというかなんというか、だからなんなんだ、この話は、みたいな。
ただまあ、個の喜びを描いた点では、やはり若書きっぽくて良い。
「黒い明日」
相次ぐ子による父殺しの犯罪。そんな中、同僚の里村が呟く。
「息子が自分の子だとは思えない」
「ステファン〜」のアンチテーゼとなっているようなところは面白い。
んだけどこれも一発ネタでなにも広がりがないし、なんかどうでもいい感じだな。
栗本薫のSF短編集の中では一番どうでもよかったなあ。
まあ、多分年齢が大きく関係しているんだろうけど。
でも、それだけじゃないと思うよ。
なんつうか、初期のほかの作品にも散見されるんだけど、いかにも「SFってこういうのでしょ」みたいな、借り物臭さが強いんだよね、この作品。「セイレーン」とかもそうだったけど。SFマガジンだから張り切っちゃったみたいな。
「幽霊時代」とか「時の石」「「火星の大統領カーター」には感じなかったんだけどね。
あー、つうか要するに、完全に宇宙を舞台にしたSFはだめなんだな、栗本先生は。
未来を舞台にした地球の話だったらまだなんとかなるんだども、やっぱり完全なセンスオブワンダーってのはないし、やっぱ宇宙の話には理系知識が必要になるしなあ。
と、しみじみしてしまった。
まあ、悪くないよ。でもちょっと期待はずれだったかな>
| 翼あるもの (上) (文春文庫 (290‐4))栗本 薫文芸春秋 |
思わず発動ダブルうな印。
しかしそれもいたしかたないのだ。だっていまだに読むたびに泣けてしまうからね。不気味なくらい泣けるからね。気持ち悪いくらい泣けるからね。
で、まあ、あれです。ジュネです。ホモです。やおいです。
ゲッツやおいです。ごっつやおいです。腹八分目じゃなくて満腹ごっつあんなやおいです。
上巻のストーリーは、美貌の天才シンガー今西良をめぐり、作曲家の風間とドラマの共演者である巽が恋のさやあてをしていたのだが(ちなみに二人ともうほっ!いい男)、♂臭い巽は感極まってジョニーをレイープしてしまい、それでテンパッたジョニーはドラマの撮影に使う拳銃に実弾を仕込み、撮影中に巽を殺してしまう。一同が混乱する中、ジョニーのバンド仲間のサムはすべての罪を自分でかぶり、自殺したのでした。
いかん、ついうっかり全部説明してしまった。
で、この上巻ですが、ぶっちゃけどうでもいい。出版はあとになったのだが、この上巻はまよてんの前に書かれており、もう一つのまよてんと云うか、まよてんパイロット版とでも云いたくなるような話で、だからありていに云うと同工異曲で飽きた。
ところが、時間を置いて書かれた下巻。上巻のストーリーを別視点から描いたこの部分こそが、ダブルうな印の秘密の源。
ジョニーというのは、栗本薫の「かくあるべき自分」というか「自分はこうなはず」みたいな理想像、願望像だと思われるのだが、ここにいたってようやく栗本薫は一つの事実に気がついたようだ。
「自分は本当の意味で選ばれた者などではない」
この自らのうちから沸き出でた苦い屈辱が、奇跡の存在を生み出した。
森田透――栗本薫作品で好きなキャラを一人だけあげろ、と云われたら、私は迷いもなくかれを挙げる。そしてまた、実際問題ファンの間でも好感度NO1との呼び声も高く、作者自らも「どんな形であれ、かれの物語はハッピーエンドに終わる」と云わしめるほどの好感度キャラ。
ではなぜ彼はそれほどまでに薫ファンに好かれるのか。
それは透が負け犬であり、穢れの果てにある聖人であるからだ。
下巻の物語は、透が新宿のバーで一人の男と出会うところから始まる。
彼は敗北者であった。
男でありながら、幼い頃からその特殊な容貌をもって人々の欲望にさらされ、汚され、犯される側、狩られる側の生物として生き方を強要され、自らをそうした特別な存在と定義させられておきながら、本当の本物である今西良に出会ってしまった。
「透の方が顔は整っている」と人々は云い、だが次には「でも良の方が魅力的だ」と云う。
出会った瞬間から、自分がまがいものであると気づきながら、勝てるはずがないと知りながら無謀な戦いを挑みつづけ、そして友人もファンも仕事もすべて失い、新宿の夜に棲む男娼まがいの存在に落ちていた、それが森田透という人物である。
ああ、どうにもやはりあまり冷静には語れないし語る気にもなれないな。
要するに、これはそういう作品なのだ。一人の少女が剥き出しの自我をさらけ出し、こちらも全力でそれにこたえなくてはならなくなる、という。
とてつもなく気障で、古くて、暗くて、一人よがりで、それでも、これが森田透であり、栗本薫なのだ。
わかるまい、と透は熱い空洞になった頭のどこかで叫んでいる。
あんたたちには永久にわかるまい。
おれはいつだって、ポケットに、ジャックナイフ、なぜだかは、わかるまい。
狩られ、買われる側にしかなれなかった。
これ以上、堕ちるべき深みさえないはぐれ猫が、
どうして、さしのべられる手に牙を立てるか、わかるまい。
仲間じゃない。一度だって仲間だと思ったことなんかない。
奴らはジョニーの信者どもで、オレは異教徒の神。
まがいものの神であれ神を僭称するものが、
どうして、他の祭壇への礼拝に加われるだろう。
信じられるふりをして――
安らかに包まれ、ぬくもっていてもいいというふりをして。
たとえ明日巽が良の祭壇にひざまずいてその洗礼をうけ、
改宗した異教徒になり了せるとしても、
いまこの時間にそっともたれかかるふりをして、
オレは彼を赦すことができるだろう。
あんたがたとえどんなひどい仕打ちをしても、
ぼくはあんたのくれたどの一日のためにだけでも、
千回でもあんたを赦すだろう。
そうだとも――そうでなくて、どうしてお前を憎もう。オレは、愛しているよ。
愛してるんだよ、ジョニー、オレがお前であれなかった、そのお前だけを。
愛とか、憎しみ、とか云うよりも、ずっとずっと大きく深く――
オレにはお前しかなかった。
軽く読み直しながら印象に残った透の心情を拾い書きしてみると、なんともまあ、栗本薫である。いま微妙に冷静になってしまったんだが、「泣いた」とか散々云っといてアレだが、こういうので泣けるやつってアレだよな、ホント。友達になりたくないタイプだ。
後半に入ると、純粋であるがゆえに弱者でありつづけた透に対比し、本質的に弱者であるがゆえに自覚して最強の地位と権力と能力を身に着けてしまったしまった島津が登場し、物語はまたちがった展開を見せるのだが、島津の透への理解度もなかなかいい。
ナイフをつきつけてやらせろって云われたら、
ジョニーはナイフで刺されて死ぬ方を選ぶさ。
トミーは屈辱に震えながら云う通りになる。
で、実際どっちがプライド高いかっていや、トミーなのよ。
なんて台詞は透の性格を簡潔に表しているし、ラストの
「気分はどうだい、透」
「うん――まあまあだな。何だか――何だか」
「なんだ」
「歌がうたいたいみたいな気分だよ。妙だな」
「妙なことなんかないさ、何も。あんたは歌手なんだ」
「そうだね」
なんてのもいい雰囲気だ。
なんだかなにを云いたかったのか自分でもわからなくなってきたが、とにかくこれはおすすめの一品です。激・おセックス描写がありますけど、そんなにお下品ではないので、読み手が透を男だとイメージしなければ、男性読者でもなんとかいけます! いけるはずさ!
むしろ栗本先生にいま読み直して頂いて、自分が本来どれだけ無力で弱虫でプライドの塊なのかを思い出していただきたいし、それをこういう形で吐き出すことによって自分が作家たりえたのだという事実に気づいていただきたい。
要するに、まわりの苦言に傷ついているし、実はいまの自分がイケテナイのかも知れないという現実をしっかりと受け止めていただきたい。
で、なんでおすすめのはずなのに、オチが現状への愚痴になっているのでしょうか。わかりません。
| にんげん動物園 (1981年)中島 梓,山藤 章二角川書店 |
新聞連載エッセイ。
読売新聞かなんかで連載されていた、山藤章二のイラストがついているエッセイ。動物をテーマに毎日どうでもいいような話を繰り広げている。
あずさのエッセイの中ではいまいちな作品。一回毎のページ数が少ないし、新聞連載のため、あずさが妄想を暴走させたりしないままに次の回に行ってしまうのがその原因か。
ただ、やたらめったら「私は原稿を上げるのが早い」「落とさない」と自慢しているのが微笑ましい。
ビーバーを模して描かれた梓の似顔絵は、愛嬌のある変なぶす、という感じで梓っぽく仕上がっている。山藤章二はなんだかんだいって似顔絵うまいね。
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