そんなわけでグインサーガの第二幕、陰謀篇。すなわちアルド・ナリス登場篇、でございます。 いやあ、あれね、これはあれだね。ナリス様を「素敵!」と思うか「うざっ!」と思うかが勝負の分かれ目ですね。 もしここでうざい派ならば、今後の彼のうざさは想像を絶するので、ここでやめといた方がいいと思います。いや、本当にうざいから。マジでマジで。 でもぼくはDANZENナリス派だし、使ってる化粧品もナリス化粧品なので問題なく全然OKばっちこーい、なのです。 でも本当は化粧品なんて使っていません。ただナリス化粧品って単語が使いたかっただけなの。いや、田舎にいたときにね、よく通る道にナリス化粧品のでっかい看板があったのよ。 当然、先にナリス様を知っていたぼくは、その看板を見るたびに化粧をしているナリス様(画・天野)を連想してドラえもんのように「ふふふ〜」と笑っていたわけですよ。キモかわいい。キモかわいいよ自分。抱きしめてあげたい。 脱線転覆大作戦は今日も進行中ですが、強引に話を戻します。 ストーリーはもっぱらナリスたちがパロを取り戻すためにモンゴールと戦うための準備をいろいろとしていますよ、ってだけなんですけど、それまでノスフェラスに限定されていた舞台が一気に広がり、中原各国が登場したことにより、この広大な世界でどんな物語が展開されるのだろうとわくわくさせた。 冒険物としての側面は弱くなったが、群像劇、大河ドラマとしての魅力はこの辺りで一気に花開き、おそらくだが女性ファンを満足させたことだろう。 この時期、忘れてはいけないのがモンゴールのバロ駐留軍司令官のカースロンさん。 敵側の人間として描かれながらも、田舎から出てきたおっさんが、都会の女にあっけなく骨抜きにされていくさまは愚かながらも悲しい。その女がパロでは男勝りと呼ばれていることも考えると、さらに。 そこまで文化の開きがあっては、そりゃあ侵略したくもなるだろう、そう思わせてくれる。 敵側の描写も人間臭くやる。そんな栗本先生らしさがいい形で出た、珍しいケースである。 群像劇として本来の魅力を発揮し始めたグインサーガ。もちろん、この時点でも傑作である。安心して読んで欲しい 。 ☆グインサーガを読むのをやめるポイントその1 アルド・ナリスがどうしても気に食わない方 及びコナン風のヒロイックファンタジー「だけ」 が読みたかった方は6巻でやめた方がいいでしょう。
グインサーガの外伝の2。三人の放浪者篇のはじまりの巻でもあります。 うな印はどうかと思ったけど、さっき読み直したらなつかし面白かったので、勢いでうな印つけます。 リンダとレムスをアルゴスに送り届けたのち、一人で放浪を続けていたグインは、赤い街道で一人の行き倒れを拾う。 なんというか偶然か、それは出奔したパロの王子マリウスであった。 成り行きで道連れとなった2人は旅をつづけ、いつしか死の都ゾルーディアに迷いこみ、イリスの石をめぐる争いにまきこまれていくのであった…… あらためて読み直すに、この三人の放浪者、すなわちグイン、マリウス、イシュトヴァーンのでこぼこパーティーは面白い。 グインを間にはさんで対立しながら一緒に旅を続けているのが夫婦漫才じみていて良い。 不死身の〈死の娘〉タミアや、太りすぎて歩くことも出来ず、自らの肉の中に常にうずもれている醜悪なる〈死の王〉アル=ロートも、わかれやすく不気味でいい。普通にアニメの1エピソードみたいだ。そしてよく出来てはいる。もうちょっと広がりがあると良かったけど。 ただ、なんですかね、いいがかりみたいなことですけど、この三人の放浪者篇がなかったら、ベルセルクの〈千年帝国の鷹篇〉も、もう少しまともな形になったんじゃないだろうか、どうだろうか。 あの本編を全然進めずに、どうでもいいサブエピソードばかりを繰り返すところがなんともグインっぽい。 ベルセルクも、まあ皮肉な話だ。作者は真面目な性格なんだろう。人外の化け物である使途や、それらをすら超越した存在であるゴッドハンドの強さの描写を徹底し、超戦士であるガッツをもってすら無力であることを表現し尽くし、長い時間をかけた果てに、やっとかれらに抗する手段である魔法や超物理的な存在を出したころには、その魔法の存在が作品の世界観と調和せず、読者を興ざめさせる羽目になってしまった。 そもそも、本編に説得力をもたせるために始め、うかつにも長くなってしまったプロローグが好評をはくしてしまい、本来の形である現状が不評を買っているというのが、なんとも皮肉だ。 つってもまあ、実際問題、昔の方が面白かったのも事実なんだけどさ…… グインを読んでファンタジーを書くことを夢見、グインの同人とオリジナルで悩んだ末にベルセルクをはじめた作者の作品が、「むかしは面白かったんだけど」とか云われている現状は、なんとも歴史は繰り返すというかなんというか。 しかしまあ、ベルセルクは画力が劣化していないのが救いだし、ストーリーがちゃんと進めば面白くもなる希望はあるし、まだ読者にも見捨てられていない。がんばって欲しいものだ。いや、ぼくは栗本先生にもがんばって欲しいのですけどね。 話を今作に戻すと、この作品、発表された時期も面白い。本編よりもほんの少し先の時代が描かれているので、いつの間にか別れているグインとイシュトヴァーンや、なぜか行き倒れているマリウスなどの姿を見て「どうしてこうなるんだろう?」と疑問とときめきを覚えるのだ。素敵な悪戯だね。 それにしてもこの時期のイシュトヴァーンはいい男だ。普通にカッコイイ。 男が憧れる、ちょっとワルで、ちょっとシニカルで、女にもてて、ケンカは強くて、ギャンブラーで、根はいい奴で、でもまだ何者でもなくて。 ファンが「昔のイシュトを返せ!」と云いたくなる気持ちもわかる。 が、彼のこの魅力は「なにも持っていない、何者でもない」からこその魅力であって、なにかを手に入れるたびにそれに縛られ輝きを失っていき、同時に表面化されていなかった人格の歪みが激しくなっていく、というのは、必然の流れであり、間違ってはいない、と思う。 問題は文章とか展開とかで。 あとがきが木原敏江で、楽しそうにグインのイラストを書いている。 このわいわいとした雰囲気、懐かしいね。 グインって、一昔前はSF・ファンタジー界の一大イベントだったんだよなあ。しんみりする。なんでいつからこんなことにねえ。 総評すると、目新しさはないが、外伝として手堅くまとまったファンタジーの佳作。 ま、どうせグインファンしか読まないものだしな。
そんなわけで、まかすい本格始動。 いま見るとあれかなあ、なんて思ったけど、いや、これ面白いよ。正直意外なほど面白いよ。 一癖も二癖もあるキャラたちが雄介のもとに集まってくるさまはまさに水滸伝。 人間だけでも怪物的弟・安西竜二。剣道部の女小角・桂木円。爆発物の天才、那須。変装の天才カメレオン。うぬほれ天才軍師・加賀四郎。その弟子・柴文明などなどなどなど、魅力的なくせものぞろい。 特に加賀四郎は好きでしたね、ぼくは。あの人望のなさそうな口の減らない具合が。 味方となるはずなのに足並みの揃わない妖怪軍団も素敵。 軍団が素敵っていうか、サドの北斗多一郎が素敵。 ごっつい中年であるところの雄介を、美貌の青年である多一郎が拷問にかけるところなんて、栗本先生がよだれたらして喜んでいるところが目に浮かぶよ。いや、浮かばせないでください。きもいですよ! ニャルさまも出てきたし、クトゥルー勢も元気がいいぜ! つうか、おれはこれでクトゥルーに入ったからあんまり気にならなかったけど、妖怪ども強いな。ニャルさまとタイマンでやり合ってたりするよ。無理だよ、ニャルさま相手なんて。 本来はこうやって楽しむものだったんだろうな、うん。 三巻の冒頭、けっこう長いレイープシーンがあるんだけど、そこはいやでしたね。レイープ嫌いなんで。いや、好きな奴いるのかって話ですけど。 あれからずいぶん経つけど、どうしてもレイープシーンだけは慣れませんのう。力づくで勝手に道具として利用される、というのがどうにも嫌なんだろうなあ。 ともかく、面白いよ、これ。少なくともこの時点では。永井豪適性のある人は是非。
現代物ミステリー。 ぼくが「ファム・ファタール三部作」 と勝手に呼んでいる物の一つ。 ある夜、主人公が偶然に助けた女は、竹久夢二の描く絵を思い出させた。彼は、彼女こそ自分が長年さがし求めていた「運命の女」であると直感した。しかし、彼女のまわりでは次々と殺人事件が起こり…… 悪意と打算でつくられた事件の中心に、無垢なる狂気をもった「女」が存在し、それがすべてをひきずりまきこみ、破滅へと導いていく…… 本来、弱者であるはずの存在が、弱者であるがままに強者をより苛烈な滅びへと押し流していく。 戦わずして勝利する、女というものの性質を描いた、ミステリーの佳作。 いや、ミステリーとしてはそんなに出来がいいとは思わないが、けっこう面白い。 この頃の栗本薫の特徴として、主人公がだれよりも物語の世界、いわば幻想の世界に憧れ、その世界の一員になりたいと願いながら、最後まで部外者である、というのがある。 今作では「運命の女」の導く破滅の世界に憧れながら、しかし主人公は生き延び、彼女たちだけが幻想の彼岸に行ってしまう。その取り残されることこそが悲しみであると読者は思わされる。 さよう、すぐれた読者であり、語り手であるということは、すなわち物語を作り出すものにはなり得ないということなのだ。 語り手であるほどに憧れながら、作り手にはなれぬ――だからこそ、だれよりも熱意を持って語り、彼岸へといくかれらを愛しながら見送ることができる。 ゆえに彼女は「現代の語り部」であった……んだけどなあ、もう。 あんまり関係ないが、漫画家(といっていいのかどうか知らぬが)山田章博の短編「ファントム・オブ・パレード」が地味に好きだ。 狂気と幻想を描きつづけた作家、アンブローズ・ピアズが、その晩年、荒野にて幻想の行進と出会い、かれらの列に加わって、その消息を絶つ、というだけの話だが、生涯、一人の紡ぎ手であった男が、ついに幻想の世界に旅立つ姿には、静かな感動をおぼえる。 書きつづけても書きつづけても幻想に置いていかれていた男が、ついに幻想に連れていってもらえたのだ。そしてその時、ビアズに置いていかれるのは、われわれ読者の方である。 あいもかわらず余談ばかりが長くなったが、ストーリー自体は凡作の域を脱しない本作だが、現代世界に大正浪漫を現出させようとした心意気と、前述の、おいていかれるものの哀惜とが物語に彩りをそえ、なかなかの作品にしている。 大正浪漫をしたい、でもそんなことできない、そんなあなたにおすすめ。
長篇SF。 すこし長くなるので、余談から。 カバー及びイラストは佐藤道明氏。 かれのイラストはSFマガジン系の小説でいくつかカバーやイラストを見るだけなのだが、神林長平の名作「プリズム」のイラストを手がけて以来、気にいっている人だ。 もちろんうまいのは確かだが、さして美麗とも超絶技巧ともセンスがあるとも思わないのだが、なんというのだろうか、かれのイラストの生み出す空気感が、なんというか私の好きなSF観ととてもしっくり来るのだ。 未来であり、機械であり、寂しげであり、どこか白茶けていて、ぼやけており、謎めいており、怠惰であり、奇妙な女がいて、表情がない。 このメディア9のカバーもなかなか好きだ。 ただ、一言だけ云わせてくれ。 だれだよこの寝そべっている女。出てないだろこんなキャラ。 ちなみに、気になって、佐藤氏がなにをやっているんだろうと思ってたったいま調べたら、マクロスの川森正治が所属する会社の社長らしい(ぐぐってみただけなので、同姓同名の別人だったらスマンとしか云いようがない。というよりも、もし違うとして、佐藤氏の詳細を教えてもらえるなら、こんなに嬉しいことはない ※追記・別人だそうです)で、その会社の最新作が創聖のアクエリオン。 なんかこう、いろんな意味で「待った!」と云いたい。「異議あり!」でもいい。なんでこうなるんだろうか? まあ経営は別問題だからなあ、と無理に納得する。 さて、余談は終え、本題にうつろう。 おどろいた。 この話、十年以上前に一度読んだきりで、その時に「イマイチ」という評価をくだして以来、一度も読み返してもいなければ思い出しもしなかった。 だから巨大宇宙船の帰還にともなう騒動、という基本設定はおぼえていたのだが、ストーリー自体はまったくおぼえていなかったので、今回、この感想のために頭からしっぽまで完全に読み直した。 感動した。 なんでこの作品のことをすっかり忘れていたのか。そのことにおどろいた。 なんとさわやかで、なんと美しく、なんと青臭い物語なのだろうか! そう、この青臭さ。人に読ませるだけのテクニックを持った人間となってしまうと、なかなかにこの青臭さを持ちつづけ、それを人に見せようなどという気になれはしないだろう。青臭さとは未熟の証だからだ。 しかし、成熟した技術を持って未熟を表現できるのならば、これほど素晴らしいことはない。 改めてあらすじを紹介する。 はるか未来の地球――文明は成熟しきり、生と性は管理され、自らでは新たなるものを生み出すことの出来なくなった停滞しきった人類は、変わりばえのしない日常の中、変革をもちこむ唯一の存在である宇宙船の帰還だけを心待ちにしていた。 主人公であるリンもまた、その一人であり、彼には宇宙船メディア9の帰還を待ち望む特別な理由もあった。メディア9のスペースマン(宇宙飛行士)は彼の父なのだ。 長い旅の果て、十年ぶりにメディア9は帰還した。 熱狂してかれらを迎え入れる人々。だが、宇宙港にとどまったメディア9は、決してその扉を開くことはなかった―― メディア9の真意をめぐるミステリー。 親と子の愛。一人の青年の成長。伴侶との出会い。テロリストとのアクション。生き方を違えた人同士の確執。そして生命の進化…… さまざまな要素がつめこまれたこの物語は、しかしオリジナリティーがあるとは云いがたい。なにせ解説にすらその類のことが書いてある。 ありていに云って、元ネタを指摘することもできる。 冒頭はブラッドベリ(ウは宇宙船のウ)であり、中盤はハインライン(夏への扉)で、オチは小松左京(神への長い道)であろう。正直ハインラインは読んだことないので自信がないが、ブラッドベリと小松左京はまちがいあるまい。 要するに、悪くいえば、これら名作のパクリ、二番煎じにしか過ぎない。 だが、だ。 だが、書けるか? ほかにいるか? ブラッドベリの詩情とハインラインの闘争と左京のSF哲学と、そのすべてを一つの作品にまとめることができるものが、どれほどいるというのか? そしてこの作品はかの巨匠たちの作品のいずれよりも未熟で青臭く、希望と愛に満ちている。ついでに云えば、格段に読みやすい。 たしかに栗本薫はオリジナリティに欠ける作家かもしれない。 だが、この作品ならば彼女にはかの大デュマのように告げる権利があるたろう。「確かにパクッた。だが私の方が面白い」と。 読みながら二度、背筋をはしるものがあり、また二度、涙腺が震えた。そのいずれもが、なにも新しいところのない展開であり、キャラクターであり、台詞であった。 母シーラの親としての愛と女としての愛。 恋人ヴァイの、強いからこそ待つという選択。 苦しみに満ちた二十年に「後悔はない」と云いきるエリザベートの潔さ。 老ゼノの洞察と優しさ。 父ロイの信頼深きただ一言「了解」 主人公リンの若さ、あおさ。そのすべて。 そこには愛があった。 ならばこれは、一葉のラブレターなのだ。 一人の少女が、SFという名の相手に贈った、万感の思いなのだ。 私は愛する。すべてはよく、すべては正しいのだ。愚考も悲哀も残酷さも償われざる罪も、 すべては正しい。そして私がここにいるのだ――私の父よ、母よ、 愛するものたちよ、故郷の土よ、海よ、同胞よ――私はおまえたちをすててゆく。 そして私の足が私の前にさし出された愛をふみつけて通りすぎる刹那にも、 私はそれらを全身全霊のすべてをかけて愛してやまないだろう。 すべてはあるようにあるのだ。かく在り、かく在らしめよ――私はもう迷わない。 そして同時にわれら次代に向けたメッセージでもある。 恐れるな。すすめ、変われ、あるようにあれ。なぜなら君もまた人間であるのだから、と。 もし、完成度や新しさをもってはかるのならば、この作品は決して優れていない。ゆえに、傑作とも名作とも云うことはできない。だが、これはいい作品だ。とても、とてもいい作品だ。 この栗本薫全著作感想文をはじめてよかったと思う。 未成熟な感性によって看過するところであったこの作品を、再認識させてくれた。 面白さよりも、新しさよりも、感動よりも、ただ深く、希望を感じた。 ああ、なるほど、私はこの希望を愛する。あやふやな形なき理想論のあおさを愛する。 ただ、愛する。
長篇時代小説の二巻目。そしてここで中絶。 つうか、一巻とまとめて書けばよかったね。 つまりなにもいうことないです。 さよならを云う気もない、悲しすぎて……
伝奇時代小説。 いやあ、見つからない、見つからない。 ぼくがファンになった十ウン年前は、どこの古本屋行っても溢れかえってた栗本先生の本だけど、もうほとんどさばききっちゃったみたいで、こういうマイナーな作品が見つからないですよ。 そんなわけで、読み返そうと思ったけど見つからずに断念。 そして、過去の記憶だと「パッとしない」という印象しか残らなかったのでした。- いや、ね。おれ、これさ、時代物とはいえ、RPGみたいな話じゃない? 話なのよ。悪い化け物がいて、みんなでパーティー組んでそれを倒しに行く、みたいな。 ほら、おれってさ、RPG好きだったし、やりまくってたじゃない? RPGだけで500本はやっているんじゃないかってくらいじゃない? だから化け物とか出てきても「ああ、モンスターね」みたいな感じで、よっぽど目新しいか迫力があるかしないと、スルーしてしまうんですよ。 で、目新しさとか迫力って、栗本先生の専門分野じゃないじゃない? そういうこと。 あとはどこかで手に入れてから書きます。 |