グイン外伝の三作目。 今度は人気キャラ、イシュトヴァーンの若き日のお話。 このイシュトヴァーン・サーガというべきストーリーは、外伝7・9・17とけっこう続いていくわけなのだが、イシュトヴァーンというキャラのよさのわりには、実はいい話は少ない。 準主役でなら大活躍だが、主役にするといまいちなキャラが存在するという一つの証左か。 と、あらすじあらすじ。 沿海州ヴァラキアの下町で王子と呼ばれ、我が物顔にふるまっていた若き少年イシュトヴァーン。 しかし、ある日おいたが過ぎて、しばらくヴァラキアを出なくてはならなくなったかれは、カメロン提督とともに船の旅に出る。 その旅の中、タルーアンの女ヴァイキング、ニギディアと出会い、伝説の化け物クラーケンを倒すことになったのだが…… まあ、あれですね。北欧の世界観と白鯨を混ぜて、微妙にクトゥルーしながらファンタジーに仕上げたというか。 カメロン提督とイシュトヴァーンの会話がいい。 なにがいいって、カメロンさんに余裕がある。 イシュトヴァーンへの好意をはっきり告げつつ、若造のきまぐれや悪戯に動じない大人の魅力がある。 いまのカメロンさん、いつもいっぱいいっぱいだからなあ。 うーん、まあ、幽霊船で女バイキングでクラーケン退治。 この骨格がわかれば、たいていの人はどんな話か検討つくんじゃないかな? まあ、この頃のイシュトは魅力的でしたよ、というお話。 いかんなー、今日はろくな言葉が出てこないよ。
また外伝、また三人の放浪者篇で、イリスの石の続きです。 グイマリイシュの三人は、北上をつづけ、北にある幻の国で、メーテルみたいなうほっ!いい女な女王さまに出会い、おマリはすっかり恋に落ちるんですが、 いろいろあってケルベロスそのもののガルムを竪琴で眠らせたりして冒険を終え、メーテルに「私はあなたの青春の中に生きる女」みたいなことを云われて、再び旅立つのでしためでたしめでたし。 全体的に既視感のただよう展開とキャラばかりで、印象薄し。 そもそも栗本先生の冒険物は、ぼくたちゲーム世代の人間からしてみると「あ、それ知ってる」的なものばっかりで、あとから読むには分が悪いです。 それにしても氷雪の女王がメーテル。どう考えてもメーテル。 きっとアンドロメダなんだ、氷雪の国は。 こんなもんでいいっスか?
そんなわけでまかすい。 この辺の巻、なかなかいいんだよね。 なにがいいって、物語がどこに行くかだれにもなにもわからない感じが。 そんでもって、キャラがばしばし死ぬんだわ。でもって、それがいい加減に感じない。ちゃんとキャラを殺すことの意味をわかって殺している感じがある。 いまの栗本先生は殺しても平気ですぐに外伝とか出すからなあ。 五巻なんて、ほとんどが中国人の呉くんがクトゥルーの脅威に気づいていくくだりで、追い詰められて追い詰められて砂漠の果てで主人公の安西雄介に出会うわけで、いやあ、やっと雄介が主役に見えましたね。 で、その五巻でずっと主役みたいなことやってた呉くんがあとの巻でまたさっくり死ぬんだ。そこがいい。 だからみんな死ねばいいのに。 つうか、このへんの巻って、 世界が「かれら」に気づいていく過程をわりかし丁寧に描かれていて、デビルマンの中盤、悪魔王ゼノンの宣戦布告シーン前後みたいでなかなかいい。 えーと、なにかいろいろ書くことあるような気もするけど、面倒だからいいや。 ていうかね、まかすいをどこで区切って感想書けばいいのかわからないわけですよ。 一部、二部でわけるのも淡白すぎるし、かといって全巻わけてかくのもだるいし。 だからまあ、どうでもいいじゃん。長編なんて途中から読むわけでもないし。 ルールル、ルルルルールル
短編集。 『ライク・ア・ローリングストーン』 『One Nightララバイに背を向けて』 『ナイトアンドデイ』 の三篇を収録。 作者の感じた70年代の空気を描いた作品……ということだが、 もっとわかりやすく云うと、栗本薫流『ガロ』『COM』、この一言に尽きる。 なんつっても世界観のベースが宮谷一彦なんだから。 宮谷一彦を知らない人には「ググれ」としか云いようがない。 ★『ライク・ア・ローリングストーン』 学生時代の知り合いから五年ぶりの電話がかかってくる。 その女性・ネコは、その奔放な性格でかれのバンドをぼろぼろにした相手だったのだが…… 70年代、というのは、要するに栗本薫が「若者」であった時代のことで、つまり、これは「若者」の話です。 若く、何者でもなく、そのくせいい気になっていた、あの頃の話。 というわけで、内容は特にない。 もしかしたら、栗本薫作品の中でもっとも「文学」に近いかもしれない。文学にするには文章がキザったらしく、ダサく、恥ずかしいが。 無意味でいい気になっていてバカらしくて、そのくせ人間関係ぐだぐだで、そんな「青春」というものをうまく書いています。 でも、おれはこんな都会的な青春、送ったことねーっつうの。 プロローグとエピローグを読めばだいたいわかるので、この8ページだけでも読むといいかもよ。 ★『One Nightララバイに背を向けて』 ロックとブルース狂いの男が、ある日出会った女は、言葉少なにかれについて来、かれに抱かれ、かれのブルースを聞いた。 しかし、二人の仲はかれの思うようにはいかず…… これ、いい話だよ。 いい、というのもちがうな、なんつうか、すごい話だよ。だって、ストーカー体質の男が女を殺すにいたるまでの心理をみっちり書いた話だもの。 このね、主人公がやばいんだ。実に犯罪者っぽくて。 でも切ないんだよね。 本当に、社会とうまくやっていけない奴なんだなって感じがして。 思考の端々にさ、往年のロックやブルースの名曲が出てきて、そのフレーズを思い出しているわけよ、ことあるごとに。 オタクだね、ホント。驚くほどに口下手だし。 その中でも しゃべらなくてもいいのだと思うと、わりあいなめらかにことばが出てくることに、オレは気づいた。しゃべらなくてはいけない、そう思うと、頭の中がまっ白になって何ひとつことばが出てこなくなる。 という部分なんか実に良く書けてる。 また、ふられた直後に、プレゼントしたレコードが捨てられているのを発見したときの言葉も最高にきもくて、いい。 あんなに、オレのギターも、歌も、オレのからだも、オレの口下手なしゃべり方も、ぜんぶ何も云わずにうけいれていたのに、レコードぐらいうけとってくれないのはおかしいと思った。 (中略) ただ、オレがここにいて、靖子がここにいるのだから、一緒に寝て、しがみついて、ギターをきかせて、レコードも何でも、オレのもっているものをやってしまおうと思った。 どうして、こんなにかんたんで、単純なことが、あの女にはわからないのだろう。わからないことがいっそういとおしく思われる。 全編、こんな調子で、すべてに泣きたい。でも泣けない。みじめすぎて。 この後、栗本薫は何度かストーカーの話を書いたが、ストーカーという単語のなかった時代に書いたこの話が、一番せつなくうまくストーカーの心理を書いている。 ラスト、まったく理に叶っていない理屈で女を殺すことを決意するくだりは、理に叶っていないのになぜか納得してしまう。 逆を云えば、おれがどういう形にきもい奴なのか、この作品を読むとわかるかもしれない、それくらい、変なところで共感できる作品。 今では私もストーカー。 泣ける小説はもちろん「One Nightララバイに背を向けて」 なぜならぼくもまた特別な存在だからです。 ★『ナイトアンドデイ』 あの夏、ぼくが出会ったのは、異様な執念をもってエロ劇画を書きつづける男だった。 しかし、ぼくは流れのままにかれの妻を寝取ることになってしまい…… あのエロ劇画界の御大・石井隆大先生(というエロ劇画家がいたのだよ、昔)をモチーフに、想像の翼を広げて書いた作品。 検閲されて修正をかけられることがわかりきっている女性器を、異様に克明に書きつづける佐崎のキャラ造形が見事。 なんで消されるのに書くんですかと聞かれて、ニタッと笑い「だって、あるもんだから、書くのが自然でしょう」と答える気持ちの悪さが最高。 ビジュアル的に飯野賢治(というキモイゲームデザイナーがいたのだよ、昔)をはめるとピタッと来るね。マジキモイです。 その永遠なるキモさをもって「聖サザキ」と妄想し、終わるラストがなかなか秀逸。 総評としては、異色作であることを評価。 キモキャラたちの饗宴をくらえ!
短編集。 月刊誌での一年の連載で、12のジャンルを書き分けるというこころみをした作品。 ★『犬の眼』――心理ミステリー 一人息子が殺された夫婦。その数日前に、飼い犬も殺されていたのだが…… 作者が云っているように、明るい話じゃないけど、いい話。とても普通にいい話風味。 可もなく不可もなくクォリティ普通。無難。 ★『おせん』――時代小説 大きすぎる町娘おせんの、大女の悲劇の話。 またいい話である。普通に一時間もののテレビドラマになりそうな話だ。 つうわけで無難。 ★『保証人』――社会派ミステリー 身元不明の変死体が出て、調べたら保証人になってて、まあそんな話。無難ですよね。 松本清張のオチをおセンチにした話。社会派としてはどうかと思うが、でも清張よりは好きだ。 ★『紅』――芸道小説 常盤流の家元、常盤しずは75になるが なんかあらすじ書くの飽きてきた。だから家元とかそういう話だよ。 内容自体はやっぱり無難。しかしそれよりも、前書きに気になる文章が。 小説も「芸」にほかならず、 私もまた小説という「芸」の深淵にとらわれた若い芸人であるからだ。 失礼ながら、芸というよりは作文か卒論か、 ただの文章の垂れ流し、といった小説をみかけないわけではないが…… ただの文章の垂れ流し……か。まさか栗本先生もこの二十年後、自分がまさにその言葉によって非難され続けようとは夢にも思わなかったろうに……。 ぼくも夢にも思わなかったよ…… ★『夜が明けたら』――風俗小説 えーと、淺川マキの同名曲を聴いたほうが手っ取り早いかな。 無難。 かるくあらすじを無視してみた。 ★『忘れないで -forget me not』――SF小説 ある日、突然、痴呆症にかかる若者が異常発生しはじめた。その真相は…… どう見ても小松左京のおセンチSFです。 本当にありがとうございました。 かるく茶化してみたけど、栗本先生のおセンチSFのなかではかなり好きな部類。 ラストシーンがいけてる。模範的ないいSF。無難です。 動物として健康に生きるにゃ、必要なかったろうが、 おれにだって、忘れずにいたいことは、これでけっこうあったんだからさ―― ★『公園通り探偵団』――青春小説 優しいヤクザとお嬢様との淡い恋物語。 つうか、これ、語り口以外、天国への階段に入ってた「新宿バックストリート」と ほとんど同じじゃないの? 無難です。 ★『離婚病の女』――捕物帖 嵐夢ノ丞という女形が探偵するってシリーズ。 このシリーズ自体がとてつもなくわかりやすく無難。 ★『嘘は罪』――都会派恋愛小説 栗本薫なりにおされにかるく流してみた小説。 作者自身、印象が薄いといっているだけあって、印象は薄い。 原因は、キャラクターがおされを気取っているせいで執念が全然ないからか。 翻訳小説風の文体って云ってるけど、そうかなあ? 翻訳小説って、もっと、こう、アレだぜ? まあ、無難です。 ★『ガンクラブチェックを着た男』――本格推理 名探偵、伊集院大介への今回の依頼は、なんと浮気調査。ところが事態は殺人に発展していき…… 名探偵は大好きだが、トリックは全然思いつかない、という栗本先生なので、ミステリーの主眼は基本的に「フー・ダニット」「ホワイ・ダニット」。 そんな栗本先生らしい、本格推理の佳作です。つまり無難です。 くたばれ名探偵、という話だったんですよ、これは ★『五来さんのこと』――私小説 栗本薫唯一の私小説。 といっても、身辺のことは書いても自分のことはあまり書いてないので、さほど深くはないですが。 存外にちゃんと書けてます。無難です。 なので、もっとこういう作品をいっぱい書くべきだと思うです。 むしろ今こそ書くべきです。さあ書け! ★『時の封土』 ――ヒロイック・ファンタジー グインの外伝です。 だからこう、そのままです。 無難なオチもついて、案外手堅くまとまっているよ。 えーと、つまり、総じて無難です。 栗本薫じゃなくて、普通に小説を読みたい方は是非。
映画化もされ、地味にシリーズが続いている微妙な人気作。 ハルキ文庫版だと死にたくなるような表紙がついているが軽く無視させていただきたい。つうか誰か薫を止めろよ……ないだろこれ……絵のクオリティ以前に方向性が作品内容ぶちこわしだろ…… 気を取り直す。 ジャズ奏者になることを夢見、家を飛び出した矢代俊一が飛び込んだのはキャバレーの世界。 だれもろくに耳を傾けようともしないキャバレーのへぼバンドメンバーは、薬中アル中違法入国者に詐欺師まがいにあばずれ。 そんな中、かれのプレイを聞くためだけに毎晩、店にあらわれる大物ヤクザ・滝川。 俊一は滝川をおそれながらも、すこしづつ心を開いていく。 しかし俊一の才能ゆえにトラブルは起こり、事件はヤクザ同士の抗争にまで発展してしまい、俊一の身にも危険が迫る…… あれ? なんか何度書いてもあらすじがうまく書けない。 どうでもいいか。 つまり、場末のキャバレーに、まだ何者でもない若き天才が紛れ込んできて、その才能でどたばたが起こって、不器用な大人の男がいて、ホモっぽいけどホモじゃなくて、ハードボイルドで、青春で、さわやか風味で、とにかくそんな話なんだよコンチクショー! えーと、まあまあの話です。それ以上でもそれ以下でもないです。 ラスト数行のうまさにだまされていい作品のような錯覚を覚えがちですが、中盤の展開に無理を感じるあたり、実に栗本薫らしい手癖の王国です。 ま、場末のキャバレーが書きたかったのだろう、という一言に尽きる。 目論み自体は成功しているが、なにかもう一つプラスαが欲しかったというのも事実。 そのプラスαにはたぶんホモ要素に使われたのだろうが、できたらホモ以外で。 一般人が受けつけられるホモっぽい描写は、この作品ぐらいがボーダーラインだと思う。 ここまでならなんとか一般人にも読ませられる……かなあ? どう思うみんな? まあ、良くもない悪くもない、栗本薫の平均値にもっとも近い作品となんじゃないかなあ? うーん、この時点だと矢代俊一は「天才かもしれない」程度だったので可愛げがあったが、はっきり「天才」になってしまった後年の矢代俊一はちょっとピンと来ませんよね。 ま、さらっと読めるし爽やかだし、いいんじゃない? ホモいけど。
ハードSF巨編。 んーと、これ、保留。つうのも、メディア9を再読したら存外に面白かったので、もしかして世界観のつながっているこの作品も再読すると評価が大幅アップかも? なんて思って読み直そうと思っているんだけど、いかんせんハードSF。そして長編。 文庫本で三冊もあるので、なかなか読むなおす気になれない。いや、読みたいんだけどさ。 そんなレダによって感想文が中断されていたのは秘密の話ですが、ですかまあ、とりあえず、これは保留ということにして、 レダに関するよもやま話でごまかして次に行きたいと思う。 とりあえず、突っ込みたいのは文庫の後書き。 「完成した作品はいつも想像していたものにちょっとの差か大差かで負けているので」 か、薫がまともなこといってる! 晩年のチャップリンみたいなこと云ってるよ! まるでまともな作家みたいだ! 向上心のある素敵な人みたいだ! すごいぞ薫! 強いぞ薫! 過去の自分を踏みしめ振り捨てるその気持ちがあれば、人はいつだってどこまでだって成長していけるんだね薫! ……いまの薫からこんな台詞がききたいわぁ〜。 いや、ホントはいまでも思っているんだよね? ツンデレだからちょっとツンツンしちゃってるだけなんだよね薫? だからぼくにだけはネイキッドな君のピュアハートを見せておくれよ。 それにしてもほんとにきのこの山宇治金時味は微妙だな。 話は変わりますが、時々、おかしな記憶の改変が行われることがある。 例えはこのレダに関しても一つあって、それは本の内容ではなく、私が本を読んでいた場所の記憶である。 私がこのレダを読んだのは確か中学校三年生の冬休みだったかと思う。 いのまたむつみのイラストのついた読みやすい文庫版ではなく、分厚い無愛想な二段組のハードカバーで、いまの私は、そんな本を渡されたら、げんなりしてなかなか読み出さないと思うのだが、当時は読書を覚えたてで、厚い本を読むことになんともいえぬ快感を感じていたため、遅々として進まぬページを繰るのも苦ではなかった。 ところで私は中学一年の時に実家に引越しをしている。 以後、六年余りは郷里で過ごした。 で、あるから、レダを読んだのも明らかにその実家なのだが、私の記憶にある光景は、なぜか幼い頃に住んでた家の、居間にある石油ストーブの前で必死に厚い本を繰る自身の姿である。 頭上の棚にはついに組み立てられることのなかった松山城のプラモデルの箱があり、読み疲れた私が視線を上げるたびにその箱が目に入った。という記憶がある。 記憶があるが、明らかにそんなことはなかった。 小学生の頃の私は小説なんてほとんど読んでなかったし、ましてやレダは間違いなく中学三年生の時に読んだものだ。 冷静に考えれば、そのストーブの前で読んでいたのはズッコケ三人組のいずれかであると推測できるのだが、不思議とレダが一番しっくりくる。 正直に云うと、当時の私にとってレダは手に余る本だった。 まずその分厚さ長さに手を焼いたし、欲望すら管理された世界、というものを実感として捉えることは出来なかったし、ゆえにそれに対する反発もいまいちわからなかった。 だが、それでも私はレダを最後まで読み通したし、主人公である少年イブが、なんらかの成長をとげたらしい、ということは実感できた。 要するに、その、わからぬものをなんとか理解しようとする自分の姿が、中学生のときよりも幼い時分のほうがしっくりくる、ということなのだろう。 もっとも、実際の幼少時分より、他人を理解することによって自身の特別性が薄れることを恐れた私は、他人を理解することも他人に理解されることもかたくなに拒み、さぼっていたわけだが。 さて、雑然とした文章だが、これくらい書けばみなさんごまかされてくれるでしょうか? そんなわけで、近いうちに読みます。 んじゃ。
ファンタジー。連作短編集。 グインサーガと舞台を同じくした、しかし時代の違うファンタジー。 えーと、パロスの闇王国が云々とか出てたから、何百年か後だっけ? たしか。 初見のときに 「なんか、グインの時代から何百年経ってもさして変わってねえなあ。 グインってたいしたことしなかったんだなあ」 とか思った記憶があるような。「パロスの剣」の方だっけな? 実際は、たしかグインよりも前に執筆されていた習作で、持込したところ「ファンタジー? はぁ? なにそれ?」 と内容以前の問題で突っ返されたそうな。 そんで、プロになってリベンジでグインと。 で、内容ですが。 放浪の王子ゼフィールと公子ヴァン・カルスが出会うさまざまな怪異、みたいな話で、指輪物語のように大きな物語があるわけではなく、コナンサーガのような単発物の形式をとってます。 つうか和製コナンサーガです。 筋肉バカのコナンとはちがい、そこそこ筋肉なカルスと、美少年ゼフィールのコンビにしているところが、最大のポイント。 カルスは基本的にゼフィールにぞっこんなのだけれど、その惚れっぷりが、ホモ的なものと忠誠的なもののどちらとも取れる感じで、按配としてはなかなかいい。 で、肝心のそれぞれのエピソードなんですが…… うーん、前にも書いたような気がするけど、おれってゲーム世代だからなあ。 こういう設定、世界、モンスターにはね、慣れきっているんだよね。 だから新鮮味がない。よって魅かれない。 日本にファンタジーがほとんど浸透していない時代にこれだけのファンタジーを書いた、という一点に関しては素晴らしいと思うけれど、ファンタジー作品の跋扈する現在において、ファンタジーファン的観点に立つと、あまりおすすめできる作品ではない。残念ながらね。 でも平均は割っていないと思う。 ただ、この作品、それぞれの話の出だしがいい。 ここで語られている物語はすべて吟遊詩人の語る過去の物語であり、ゼフィール王子との旅を終え、一人無為な生活を送っているヴァン・カルスが、ゼフィールとともにいた過去を懐かしみ、すがるために、夜毎、吟遊詩人のもとへ通いつめ歌を聞き、話がおわるごとに王子のいない現在に絶望する、といったような体裁をとっており、そのカルスの姿が物語に深い陰翳を与えている。 聞いたところでゼフィールのいない現在が変わるわけではないと知りつつ、それでも吟遊詩人のもとへ通うことをやめられないカルスの姿を評価してうな印。 また、なぜカルスはゼフィールと別れたのだろう、 という疑問が、続きを読むモチベーションアップにもなったことも評価。 総評して、なかなかのファンタジー。 やおい風味あり、でも基本的に健全なファンタジーを読みたい方におすすめ。
文芸春秋に連載されていた、各界の著名人に会って、そのことを書いていくエッセイ。 連載されていたのは題名どおりに1980年から81年。 ★『あずさと淋しい占い師たち』 今もまあ似たようなものだが、当時は天中殺とかなにやらで占いブームだった。 そんなわけで有名占い師数名に会いに行ったあずさでしたが…… やはりこの項で一番に残る人は、インタビュー中に自らの道を否定した和泉宗章氏。 求道者であるがゆえに、自らの歩んだ道を否定する姿は、職人の一つの究極の姿として印象深い。 また、その対極にあるのが門馬寛明氏。 当時の占い界最大派閥の長であり、彼の話にはやたらとプライドや権勢欲が滲み出していて、逆に面白い。 どんな世界でも、パワーゲームというものは存在するのだなあ、と考えてしまった。 今の占い界の勢力図ってどうなってるんだろうね。 ていうか、本当に占いに勢力もくそもあるのかよ、とか疑ってしまう。 そんなだから淋しい感じなんだよなあ、占い師。 あずさ、手堅く聞き、手堅くまとめています。 ★『あずさと侵略者始末記』 これはインベーダーブームの終わりの時期に、タイトーやナムコやインベーダーチャンピオンの人などに話を聞きに行って、最後にかるくインベーダーなんかしちゃったりする話。 今にいたるもそうなんだが、 中島先生はゲームクリエイター世代に少なからぬ影響を与え、ゲーム的なるものに親和性の高い作家でありながら、ゲームに対してやたら冷淡で反発的だ。その反発具合がうかがえる一本。 ていうかさ、いまさら云うのもなんだけど、あずさ先生のゲーム観って、このインベーダーの時代から変わってないんちゃう? 気のせい? まあ、息子がゲーム好きみたいだからそんなことはないんだろうけどさ…… さておき、あずさの話というよりも、今となっては、このファミコンすら出ていない時代の、テレビゲームの未来に対する考察というのは、なんというかもうむずがゆいというか面白いというか。 このあとファミコンブームが来て、どこの家庭にもゲーム機の1台はある、なんて状況、そりゃ想像できなかったろうねえ、なんてしみじみしちゃう。 ★『あずさとダイエット天国』 まあ、文字通りダイエッター達へのインタビューと、ダイエットに関するよもやま話。 なんかこう、基本的には予想通りの内容であろうから、なにも云うべきことはないだろう。 やたら「私はテレビ映りが悪いだけ」「私は痩せている」と主張する中島先生が、ありていに云って面白い。アハハハハ、とトシちゃん笑いをしたくなるくらいに面白い。 そうかあ、太っていたら性格も歪んでいることに気づいたから痩せたってかあ。 じゃあ、今の中島先生もダイエットすれば性格の歪み直るんですかね? 試してみて欲しいなあ、ホント。本人が云ってるんだから間違いないと思うんだけどなあ。 ★『あずさとグルメ地獄』 要約すると 「うまいものうまいものってうるさいんじゃ! 人間なんでも食ってりゃ生きていける! お前ら頭病んでるんじゃねえの? ちょっとは考えてみろよ!」 というだけの話。 まあ、どうもこの回、ろくに取材もしてないし、締め切りのせいでいい加減くさいね、うん。 ★『あずさのバンド始末記』 作家や編集者を集めてバンドを作って、遠藤周作と一緒にライブをしたよっていうだけの話。 まあ、ほんとうにそれだけの話。 やっぱ注目の一文はこれかなあ。 「私はもうずっと前に、自分がミュージシャンとしての才能に恵まれておらぬことを知っているし」 ホント、知ってたはずなのに、いつの間に忘れちゃったんだろうね、中島先生ってば。 ★『あずさと突撃レポーター』 梨元勝を中心とした突撃レポーターのお話。 梨元勝といえばあの軽佻浮薄な態度だが、しかしまあ、このエッセイを見る限り、<かれは実に心底軽佻浮薄で、そこが徹底されているからむしろ許されている、そんな人なのだなあ、とわかる。 わかったところで梨元勝の価値があがるわけでもない。そんな現実。 ホント、なにがしたいんだろうね、突撃レポーター。 ★『あずさと「作家養成所」』 文芸科の先生とか学生さんに話を聞きに行く梓。案外中途半端な態度の皆々様。 んでもって梓は「小説家になるために必要なひとはただ一つ。小説を書くことだ」 なんて結論を出している。まったくもって至極ごもっとも。 ★『あずさと流行作家』 川上宗薫、笹沢佐保、半村良の三人の流行作家にインタビューしちゃったりする梓。 川上宗薫の期待を裏切らないでたらめな生活萌え。 半村良の職人魂萌え。 笹沢佐保の書いて書いて書きまくる姿勢萌え。 かれらに刺激され、今日もあずさは小説書きに燃え。そんな話。 いやあ、でも、やっぱ三人とも面白いこというし、すげえなあ、うん。 そしてこういう、読者の創作意欲をかきたてる文章を書かせたら梓の右にでる奴はいねえなあ。 この項目読んでたらおれも無性に書きたくなったもの。 意欲を掻き立てたい人におすすめ。 ★『あずさと淋しいアメリカ人』 あずさがアメリカをうろちょろして「ここは想像どおり」「ここは想像と違う」「これがディップ、ははあ、アメリカですなあ」とアメリカ文化のことを無邪気に知ったような顔をして話す梓でしたとさ ★『あずさと二人の作家の肖像』 アーサー・ヘイリーとレイ・ブラッドベリの、二人の国際的作家にインタビューする梓。 でもごめん、おれアーサー・ヘイリーって知らないし、一年かけてボーっと休みながら構想を練って、それから半年寝かせて、そのあと一年半かけて書くというアーサー先生のやりかたはまどろっこしくてイライラする。 男だったら書きたいものを書きたいときに書かんかい! と殴りつけてやりたい。 一方、ブラッドべりはぼくもファンですが、もちろんな中島先生も大ファンで大興奮。 それにしても、ブラッドベリ先生の理想主義というか、ピュアで綺麗過ぎる主張の数々は、ヤクをキめているかマイケル・ジャクソンかじゃないとありえないレベル。 あのブラッドベリじゃなければなんて偽善者だと呆れていたところだったぜ。 なんつうか、素敵過ぎる人って、それはそれで迷惑だよなあ。 総じてみますと、インタビュアーとしての梓はなかなか悪くない。 話の取捨選択が的確なのか、とにかく本人が浮かびあがるような、なかなか素敵なインタビューエッセイです。 80年という時代の古さを、良しとするかどうでも良しとするかで評価はわかれるだろうなあ。 当時を知る資料として、なかなかわるくないですよ。 そんな感じで。
梓がいまとなっては存在も知られていない懐かしの女性誌『若い女性』と、あろうことか『ノンノ』に載っけていた連載エッセイを一冊にまとめたもの。 梓に若い女性向きの話は無理。 いわゆるスイーツ(笑)と梓ほど遠い存在はない。悪い意味で。 恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。 およそあらゆる小説家の中で、栗本薫ほどファッションやメイクのセンスがない人をおれは知らないのだが、そんな彼女が得意げにファッションセンスについて語り、恋愛について語り、男性について語っているんだから、笑えるを通りこしてただひたすらに恥ずかしい。なんで読んでいるおれが赤面しなくちゃならんのだ? とにかくファッションの参考が少女漫画オンリーで、しかも少女漫画に出てくる男性キャラの格好を参考にしたりするんだから、おれは悶死するしかない。 150センチしかない梓が鷹塔摩利くんの格好をするとか、これはなんの羞恥プレイなんだろう? それで自分は小さいし髪も長いからそれでも男には見えないと、じゃあなんのつもりなのかというとベビーギャングとか、幼い頃の美空ひばりの男装のつもりだというから、おれは両手で顔を隠して「知らない知らない」とぶりっ子したくなってしまった。ここまで見てらんない発言というのもすがすがしい。 ただ、こんだけこっ恥ずかしくてなんの参考にもならないエッセイでありながら、しかしなんか、面白いのだなあ。 やはり梓の文章は、ほかのものにはないライブ感がある。 生で一発書き、恥ずかしいことも含めて、その瞬間に思ったことを、思ったままの速度で書く。そういうスピード感と臨場感は、他の作家の追随をまったく許さない。 おかげで梓がハズカワイイしキモカワイイ。 ノンノの部分はタイトルが『梓の気まぐれクッキング』で、ご飯大好きでご飯の話ばかりなのはいつも通りなのだが、「肉が食べられない」と云った次のページで豚ばら肉を使ったレシピをお勧めするなど、余人の追随を本当にまったく許さないいい加減さがたまらない。 それにしても、この頃の梓はよく本を読み、またたくさんの友人に囲まれていた。 エッセイ書くのは苦手だけど、読むのは大好きでをたくさん読んでいるからつい自分もと書いてしまっているというあとがきは面白せつない。 なにが切ないって、これが08年に発行した『ガン病棟のピーターラビット』では「ろくなエッセイがない」と傲慢に語り、知り合いの人が「まともなのは中島梓と曽根綾子くらいだ」と云っていたと、信憑性のうすい言葉で自分を勝手に上にあげてしまうことだ。 やっぱり、梓はホケちゃったのかな、と素で思う。 長く生きるというのは素晴らしいことで、それは人は生きれば生きるほど多くのものを愛するからだ。 どんな人間だって、生きていればいろんなものを好きにならずにいられない。 それは例えば大恋愛した異性に限らず、好きな食べ物や好きな散歩道、好きな作家やなんとなく可愛がっている近所の野良猫、愛用のペン、ずっと使っている枕、なんでもいい、そんな些細なものにも、人は好意を抱かずに生きてはいられない。 生きるということは愛するということだ。もし本当になにも愛さずに生きているとしたらとんだ傑物だ。 そしてどんな些細なものであれ、愛するということは心を豊かにするものなのだ。 生まれた最初は自己愛しか持ってなかった存在が、次第に多くのものを愛するようになる、その営為を人生と呼ぶ。 だが梓は、あれほど愛していたもののことをどんどんと忘れ、いまでは原初の自己愛のみに戻りつつある。 ボケたとしか思えない。ひどく悲しいことだ。 愛しつづけろとは云わない。しかし愛したことを忘れるなんて、本当に悲しいことだ。 本作のやみくもなテンションとは別に、ひどくしんみりとしてしまった。 クオリティはともかく、いまさら読まないほうがいい話だったのかもしれない。
結論から云うと、中島梓に評論は無理。 こんだけ感想書いておいていまさらなんだが、正直、いままであんまり梓の評論をちゃんと読んだことがなかった。 つうか、そもそも梓、評論家としての仕事はすごい少ないんだよね。 デビュー作である『文学の輪郭』と、この本と、『コミュニケーション不全症候群』と、『タナトスの子供たち』だけでしょ、結局。 『文学の輪郭』は、ぶっちゃけ論じてる本をおれが読んでないから、評論として優れてるかどうかわからなかった。 『タナトスの子供たち』は、文章も内容も論外だった。 『コミュニケーション不全症候群』は、内容は変なところもあったが、語っていることが現代的で珍しかったから良かった。(でも今、とても懐疑的になっているので、あとでじっくり読み直して考え直してみる) で、この本。 この本はタイトル通りSF評論本。 たぶん、いまの自分は、この当時の梓程度には、SFについて知っていると思う。 つまり、自分も詳しいものについて梓が論じているのを読むのは、はじめてだ。 そしてわかった。梓はあらゆる意味で、評論のできる人格じゃない。 この本は執筆された1981年当時のSF界について論じている。 SFとはなんなのか? その定義は? そしてSFにはなにが出来、どこへ行こうとしているのか? と云ったことだ。 これがいちいちトンチンカン。 梓の云っているのであろうことを自分なりに要約すると。 SFとはセンス・オブ・ワンダー センス・オブ・ワンダーとは文字通り、異邦人感覚。 「外」の人間の視点で「内」を語ることにより「内」を再発見すること。 その際、実際に「外」の人間が書いたものはSFにはならない。 「内」の人間が、「外」の眼をもって「内」を語るのがSF意識であり、それをもってはじめてSF足りうる。 センス・オブ・ワンダーによって書かれたものを読むことにより常識は崩壊し、内面的思考的自己改革が進む。 個々人の自己改革が進めば、世界を変革させうる。 もはや宗教も政治も世界を変革させられない。SFのみがその可能性を有している。 だからみんなでSFを読み、書き、世界を変革させよう。 端的にまとめると、こうなる。というか、おれにはこうとしか読めなかった。 うん、こういうのを電波と云うんだよね。 梓の評論のなにがいけないのかと云うと、自分の願望で論理を恣意的に曲げてしまっている。 評論の世界というのは、論理が絶対だ。 自分がいくらAだと思っていても、論理的思考の果てにBという結論が出たら、絶対に従わなくてはいけない。その結果、だれがどんなに傷つこうとも、そこを曲げては評論は成り立たない。 そして論理的思考というものは、自分を切り刻む刃となる危険を、常に秘めている。 だから、自分が傷つくことを恐れるものは、評論などをしてはいけないのだ。 この論をはじめるにあたり、梓はまず「SFとは特別であるべき」と思ってしまっている。 (ちなみにこの文が評論ならば、本文のどこがその気持ちを表しているのか提示しなくてはならないのだが、おれはあくまで勝手な感想として書いているので、そんな面倒なことはしない。おれは評論なんて絶対にしないずる賢い男としていきたい) 確かに、当時のSFは奇妙なブームのただなかにあり、歴史の浅さもあいまって不思議な状況をていしてはいた。 そしてまた、戦争体験を根底にもつがゆえに世界の破壊と再生、そのシミュレートにとりつかれたSF第一世代と、第一世代の創作物を読み、彼らの世界観・ガジェットを継承しながら、リアリズムを無邪気に排除して世界を破壊せしめるSF第二世代とが混在し、ともに『SF』でくくられていた異様な時代ではあった。 だが梓の云っているのは、そういうことではまったくない。 梓はSF作品が読者として好きだった。だから真似をしてSFっぽい作品を書いた。 SFっぽい作品を書いたから、自分はSFの人間だ。 自分が属しているから、SFは特別に違いない。いや、特別でなくてはならない。 梓の根底にあるのは、結局それだ。 自分の所属する場所を持ち上げるための論理、屁理屈にすぎない。 また、彼女にとって神々であった存在、小松左京や筒井康隆と自分を同じSFという枠でくくることによって、自己をも神格化させようという、いやらしい自己撞着に過ぎない。 自らの願望・邪心をまじえた思考は、決して論理にはなりえない。 彼女が語ろうとするのは、常に彼女がその内にいるグループだけだ。 自分が近々その内に入る予定だった文芸。 入ったつもりのSF。 自分がつくったんだから間違いなく入っているはずのやおい界。 彼女は本当に、常に自分の所属(していると思っている)グループをしか語ろうとしない。 なにせ評論のなかで、必ず自分の作品についても言及するのだから律儀なものだ。 そして、自作を含めたそれらがどんなに特別なものであるかを熱弁する。 結局は、自分がどんなに特別であるかをしか語ろうとしないのだ。 そんな邪心のあるものが、評論となりえるものか。 彼女のSF分類には、そのよこしまな心が如実に表れている。 バロウズをSFと認め、コナン・サーガをSFと認め、なのにペリー・ローダンをSFには加えず、SF大賞を受賞した『吉里吉里人』を外部と呼ぶ。 優れた漫画家のほとんどはSFを描いていると云い、手塚作品の九割はSFで、永井豪の作品はすべてSFとのたまい、あげく『ポーの一族』や『綿の国星』までもSFに分類させる。 明らかに、梓が好きかどうかで峻別している。 好きなものと自分の作品を同じSFで一括りすることによって、彼らと自分を仲間にしたいのだ。 余談ではあるが、SF漫画の例としてやたら『デビルマン』を語るのも頭が痛かったが、ラストシーンの解釈は本当に同じ漫画を見ているのかと眼を疑った。 永井豪のテーマは「光と闇の結婚」であるとし、その例の一つとしてデビルマンのラストシーンを挙げ、こう書いている。 かぎりなく美しいラストシーン――光り輝く魔王・サタンがデビルマン不動明への愛を告白するシーンと、そこに満たされる光とを思い出して欲しい―― 率直に聞きたいのだが、梓はあの光がすべてを消滅させる神々の軍勢であると、サタンとデビルマンの戦いをすべて無に帰すものだと、読み取れているのだろうか? とにかく、論理の前提に私心があるため、前提条件から狂っている。 小松・筒井たちと自分を並べたいため、戦争体験を軸にもつSF第一世代と、戦争を知らない第二世代の間にある明確な溝を理解していない。 というか、今日にいたるまで、梓は自分が典型的なオタク世代であること、創作物ばかりを見て育ち、現実と物語世界と同列に並べる夢見がちな世代の代表的存在であることを、まったく理解していないと見える。 梓がこの本の前半でしきりと述べているSFインサイダーの特徴は、SFではなくオタク世代の特徴でしかない。 おれは梓のエッセイは好きだ。 しかし同じ方法で評論が成り立つわけもない。 評論をしたければ、まず客観的なデータを揃え、それを読者にそれを提示し、巻末には参考資料をしっかりと載せて欲しい。参考資料が存在しないようなものを、評論と呼んではいけない。 文章も無駄に一文を長くして、やたらと本のタイトルばかりを挙げて勢いで煙に巻き、カッコイイ比喩表現で説得力があるような素振りをしてはいけない。それは評論の文章じゃない。 評論はまず第一に理論・論理だ。 カッコよくても面白くても読み物として優れていても、云わんとする内容が順序だてて並んでいなければ評論とは呼べない。 考えてもみれば、結局、中島梓は評論家としてはほとんど認められていないが、それも当たり前のことだろう。おれが編集者だったら、彼女に評論家としての仕事なんて、絶対に頼まない。 梓は、自分が評論家として求められていないことに早々に気づき、その理由に想いを馳せるべきだった。 皮肉にも、彼女が自らの特別性を証明するために語った分野から、彼女は常に拒絶を味わっている。文学界・SF界・やおい界、すべてが彼女を外なるものと認識した。 小説界から完全に排除されるよりも先に彼女の命が尽きようとしているのは、あるいは小説の神様の最後の情けであるのかもしれない。 (09/1/5)
文学不況が訴えられた当時(80年前後)のベストセラーをとりあげ、現代の読者の求めることを評していったようなそんな感じの本。 あいまいですまん。 読んでいるときは「へー、ふむふむ、はー、なるほどねえ」なんて一々感心するのに、読み終わってから冷静になると「……そうかぁ?」と思えてくるようなテイストはまさに梓クォリティ。 当時の出版状況をもとに、いろんなことを云いたい放題におっしゃる梓先生は面白く、読み物としては間違いなく面白いんだけど、評論としてはどうか? という疑問が残る。 ただ、まあ彼女の云わんとしているところ、すなわち「インテリ面したがる中流階級のやつらが多すぎるんだよ」的なところは実によく伝わってきたし、その状況は悪化していってるし、間違いでもないのかなあ、どうかなあ。 でもねえ、そもそも、80年代前半で出版不況って、 その一般論(らしきもの)が現在から見ると「ハァ?」としか云いようがないもので。 そりゃ文学は不況だったろうけどそれはずっとだし、中間小説はずっと売れてたわけだし、このあと角川がばっかんばっかん売っていくわけだし、それで不況なんていわれてもねえ。いまの出版業界を見せてやりたい。 でもまあ、トットちゃんとかなんクリとかが売れちゃうようなご時世に、ひとつ物申したい人はいくらでも居たんだろうなあ。 今となっては懐かしいなあ、としか思わないんだけどさ。 しかし、この「勝ち組も負け犬もいいけど、中流階級ってうざい、ださい、カコワルイ」という中島先生の論旨は今後もずっと貫かれているし、ぼくもいまだにこの思考に洗脳されかけているよ…… えーと、まあ、80年くらいの出版界の状況を知りたい人なら読んでみてもいいと思うよ。 村上春樹がまだ『ノルウェイの森』出してないから、そこまで爆発的には売れてない的な扱いになっているのが笑った。 |