グインの外伝6。若きイシュトヴァーンのお話。外伝3の前日譚でもある。 ヴァラキアはチチアの遊郭街において、王子の名をほしいままにしてきた悪ガキイシュトヴァーン。 ある日、かれは偶然と気まぐれで一人の少年を助ける。少年の名はヨナ。 この日から、二人の少年の奇妙な友情が始まるのだが―― 外伝の中から一つだけを選ぶならばコレ! 冒険アリ! 友情アリ! ほのぼのアリ! ぷちやおいアリ!(本番ナシ!)青春アリ! 切なさアリ! 爽やかアリ! はっきり云ってこの作品が嫌いならグインサーガ読まん方がいい。 そう思うほど、グインの、というかイシュトヴァーンのいいところだけが詰まっています。 あまり語る必要もなし。 とにかく一冊としてのまとまりがいいし、読んでいて泣けるし希望が持てるし、 グインサーガの続きが読みたくなる。 イシュトのが年上で強くてヨナを守ってやってるんだけど、年下のヨナのほうが精神的にはちゃんとしているというコンビが良すぎる。 やっぱベタだけど、ヨナに勉強教えられてるイシュトヴァーンが激プリでごわす。 「ルーン・ヴォダルーン・ガンダルーン!」 ちょっと青臭すぎるけど、その青臭さがたまらない。 ヨナとイシュトの本編での再会が楽しみで仕方がなかったものです。 まあ、その期待は、激しく肩透かしを食らうことに、なるのだが。 ともかく、本作は傑作です。読めれ。
グインサーガの外伝。短編集。 ★『闇と炎の王子――ナリス十六歳』 いい子ちゃんぶってたけど鬱屈していたナリス少年がグラチウスに誘惑されましたよ、というそれだけの話。 わりと無内容ではあるのだが、ナリスがちゃんと美少年でびびった。 後年のヘタレオカマのイメージが定着してしまったため、高貴な美形キャラだったことを忘れかけていた。ちゃんと貴族だし性格悪そうだし美形だわ、この頃のナリス。 あとそれ以上にグラチウスに威厳があって吹いた。 そんな時期もあったんだね…… ★『暗い森の彼方――ヴァレリウス十六歳』 暗い森で偏屈じいさんと暮らしていたヴァレリウス少年が森を出て魔道師を目指すまでの話。 ストーリー自体はどうでもいいが根暗明るいヴァレリウスのキャラが生かされている。 冒頭でリーナス坊ちゃんとの出会いが、ラストでナリスとの出会いが描かれていて、その二人の間で揺れるであろうヴァレリウスの未来を暗示しているのがいい。対極の二人をどちらとも魅力的に書いているからこそだ。 実際は微塵も揺れずにナリス様イェイイェイって感じだったけど。 ★『いつか鳥のように――マリウス十六歳』 宮廷からはぶられてひきこもっていたマリウスの前にあらわれた、キタラの名手である放浪の民。 マリウスは彼からキタラの手ほどきをしてもらうのだが…… ひとつところに留まれないマリウスの気性を描きたかったのだろうが、わりと間延びしている。 まあ、マリウスのルーツとしては悪くない話。 でもこんな十六歳、きもい。どんだけ幼いんだよ。 あとマリウスがミアイル死んだことをかなり気に病んでいて驚いた。 そういえばそうだったんだよな……すっかり忘れていた……妻子ほっといて行きずりの女の乳を揉みたがる変態紳士のイメージしかなくなってたよ…… ★『アルカンド恋唄――スカール十六歳』 いつものように草原を駆けていたスカール少年は、盗賊にかどわかされそうになっていた少女を助け、恋に落ちる。 だが二人の素性が結婚を許さなかった…… 激しい愛を持ちながら、なおなによりも自由を尊び、そのためにはなにものもためらわず捨て去るスカールの男気萌え。 自由を愛するからこそ相手の決断を尊重し、苦渋の決断も世の理不尽も、すべて目を背けずに見届けるスカールさんマジ男前。 「世話になった」 なぜこの少年はいつもそうまで風に似るのか――。云った次の刹那、もう、かれは起き上り、身をひるがえしてうまやの方へ向かっていった。 時々、やたらと短くカッコイイ言葉が混じってくるのが昔の栗本薫なんだよな。 今の薫はただのぐたぐだ長話だから困る。 総じて、本編のサブキャラたちに深みをあたえる、サブテキストとしては理想的な短編集。 まあ、ここで作ったキャラ設定、あとで全部ぶち壊されるんだけどね……
長編、ハ、ハ、ハ、ハードボイルドだよ、きみ。 十五年間恋しつづけた女が失踪した。 警察からそう聞かされたジャズマン・金井は、自らもその女、新藤麗子をさがしはじめるのだが、それは周到に仕組まれた罠であった…… かつての日活映画の世界だな、こりゃ。男の世界。 男を利用しつづける悪女と、それを知りつつも追いかける馬鹿な男。 果てのない男女の駆け引きに幕を下ろすのは、一発の銃弾。 とてつもなく気障で、ベタで、そこが素敵なハードボイルド。 会話は軽妙でわかりやすく、世界にはいりこみやすい。 そして男の世界を叙情的にしあげた空気感がいい。いいね、これ。 とくに最後の数ページの男指数の高さが素晴らしい。 こういうハードボイルド小説を読みたいのですけど。 あんまりないのですよね。しょんぼり侍。
長編の、え〜、なんだろ、ジャンル。 本格ハードロマン、とあらすじに書いてあるから、じゃあそれで。 内容。 沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』の同人小説。 それ以上でもそれ以下でもない。 などといっては身もふたもないが、あのドラマのジュリーと藤竜也に、別の設定を与えてみましたっていう、そういう話。 読み返すのが面倒なのでストーリーははぶきますが、港でジャズでブルースで不良のクライムストーリー。みたいな。いろいろあって、男二人が心中して終わり、みたいな。 これ、あとがきにもある通り『真夜中の天使』の原版というか、本来『真夜中の天使』と題されていた作品で、当然、一番昔にかかれ、その分稚拙で、『悪魔のようなあいつ』っぽすぎて、まあ、若書きの産物です。 特に作者自身も言っていますが、このわざとらしい体言止め! 若くなくちゃできないことです。 でもまあ、よく考えりゃ栗本先生自体が永遠の若書きなので、ストーリー自体は実は後年と大差ないです。br> なんか、けなしてんのかけなしてんのか、それともけなしてんのかわからないけど、本当はそんなに嫌いじゃないです。ちょっとついていけないだけで。 でもラストの一行 海へ。 この一文は、キザ過ぎて恥ずかしいけど、でも、決まってるなあ、なんて思ってたりします。 『キャバレー』と『まよてん』の両方が好きなら、本作も。といった程度だろうか。
長編社会派ハードボイルド風ミステリー。 地方都市・平野に左遷された暴力デカ・梶が出会ったのは、地方都市のしがらみが生んだ不可解な事件であった。 ごめん、ストーリーの細かいとこおぼえてない。 たしか暴力デカがずっかーんばっかーんとやって、未亡人と一発決めたりしながら、最終的に狭い社会のがんじがらめのしがらみに虚しさを感じて終わったような、そんな話だったと思います。 この作品、ライバルとしてインテリ眼鏡のいやみなお坊ちゃんが出てくるんですが、これがどう見ても『魔界水滸伝』の北斗多一郎にしか見えず、そう思うと主人公の梶さんも安西雄介にしか見えず、だからぼくの中でこの作品は『まかすい』のセルフ同人誌だと思っています。 そんなわけで、あの二人のファンなら読んどけ、みたいな。 まあ、社会派としても悪くないと思うよ。ハードボイルドとしても。 でも、どっちの方向にしろ「悪くない」どまりなんだよね。 無駄に長かったのがいけないのかな? 栗本先生の小説って、露骨にラストシーンが書きたかっただけってのが多いから、そういうのが嫌な人にはどうなんだろうね。
長編ミステリー グルメ評論家の失踪事件があって、それをグルメなデブ女が素人探偵をして解決する話。 グルメ小話を交えながら、最後はグルメ批判という、非常にコンセプトのわかりやすい作品。 栗本薫作品で二時間ドラマをつくれと言われたら、とりあえずこれがおすすめ。 グルメなデブ女、などと云うとげんなりしそうなものだが、なかなかにわるくないキャラで、女性的な魅力すらもちょっとある。 とにかく食べ方が気持ちいいし、知的だし、食の楽しみを謳歌しているのが魅力的だ。 冒頭シーンでの、シチューの底をパンでぬぐって食べきるシーンは非常によだれもの。こういうちょっと貧乏性な食べ方がすんごくうまい作家なんだよね、栗本先生は。 栗本薫のわるいところはほとんど出ていないが、いいところも少ないので、栗本薫と長く付き合う気がない人にお勧め。 ひまつぶしに読むには最適の長さ、内容、読みやすさです。
長編ミステリー。伊集院大介シリーズ。 突如として起こったモデル連続殺人事件。 美貌のモデル・田宮怜の依頼により事件の解明に乗り出した伊集院大介は、事件の陰におそるべき怪人の気配を感じ取るのであった…… 伊集院大介、宿命のライバルであるシリウス君に出会うの巻。 まあ、問題作ですね。 伊集院大介ってさ、あからさまに金田一耕助のオマージュというか、かれの後嗣として設定されたようなキャラで、のっぽでガリガリで不潔でぼんやりしていて頼りなくて、でもどこまでも優しくて頭は切れるという、そういう親しみのあるキャラだったわけじゃないですか。そこが良かったわけじゃないですか。 だれですか? この天狼星シリーズに出てくる、空手の達人で正義感に燃えてて眼鏡をとると美青年のこの人は。 こんなのぼくらの愛した伊集院大介じゃないやい! だってさあ、栗本センセーよー、伊集院大介ってさー、さだまさしみたいな容姿なんじゃなかったの? さだまさしはいくら眼鏡をとってもさだでまさしですよ? なんで美青年になるかなあ。 まあ、栗本先生の気持ちはわかる。 伊集院大介というキャラは、先生の「名探偵を作りたい」という願望から生まれたようなものだし、であるからには、金田一耕助のように冴えない男もやりたいし、明智小五郎のように颯爽と少年探偵団を率いて怪人と対決したりもしたいわけですよね? わかるけど、一人のキャラに両方やらせるなよ。 まあ、たしかに明智小五郎自体も、初登場の作品では、怠惰な「最後の高等遊民」だったわけで、大乱歩がそんなことやったんだから、栗本先生がそれをやっていけないなんて話が……まあ、あるんですけどね。 こんなことをしちゃったせいで、伊集院大介シリーズは出しにくくなっちゃったのもまずいよね。 この天狼星シリーズの時期に、代わりにもっと短い作品を重ねていれば、伊集院大介というキャラはもっとたしかなものになったし、栗本先生ももうちょっとはミステリー界に居場所があったと思うんですけどねえ。 まあ、そういうシリーズ中の立ち位置はともかくとして。 単品としてこの作品を見るなら、そこそこ面白い。 やたら肩に力の入った章タイトルや、文章、死体描写、もう「怪人耽美だったらおれしかねえ!」という薫の咆哮が聞こえてくるようで、芳醇な香りです。 でも、怪人シリウス、嫌いじゃないんだけど、ちょっと薄いかもな、ベタで。 この一冊でとりあえずの解決はするものの、ちっとも犯人は捕まっていないので、この後も2、3と読まなきゃいけないのがだるいといえばだるい。 ただ、後の項にゆずるが、シリーズ完結作の3は名作なので、そこにたどりつくために読むことはおすすめしたい。 あと、天野画伯の表紙に助けられすぎている。
長編。時代物。 嵐夢ノ丞シリーズ完結編。 いろいろあって謎の美女形・嵐夢ノ丞の素性がわかって、地獄島とかいうけったいな島でいろいろわくわくアドベンチャーしましたよ。 そんな感じ。 これは、あかんと思うね、先生は。 捕物帖としてやっていきゃいいのに、なんで二冊目にして、なんつうかこう、こういうの何風というのかなあ? 活劇? 伝奇? 捕物帖ではじめたシリーズなのに、二冊目にして芸風が変わって、しかも完。 ストーリーのでき云々以前に、なんでそうなっちゃったの? たしか嵐夢ノ丞というキャラは、特に考えるでもなく、ある日急に頭の中に出てきて、それから作品を書くまで紆余曲折があったらしいような気がするんだが、なーんかこう、不遇のキャラというか不遇のシリーズというか。べつに当分は素性は謎のままでよかったと思うんだがねえ。むにゃむにゃ。 まあ、具体的にどこをもって駄作扱いしているのかわからないでしょうが、結構長いので読み返したくないのです。それで評価をするのもどうかと自分でも思いますが、シリーズの方向性をすぐに変える、という栗本先生の悪癖を、ここで感じとって覚悟しておくのが薫通ではないかと。 まあ、なんだ。 読まないでもいいんじゃないかな。 薫は設定をつくるのはすごく上手いが、壊すのはもっと上手い。そういう話ですよ。
エッセイ。 文字通り、著者の半生を、マンガとの思い出中心に語ったもの。 ちょっと評価高すぎる気もするが、名著である。 いい時期に書かれたんだろうな。中島先生は当時33歳。 新人ではなく、しかしまだ今のように世界が閉じてなく、中島先生自体に希望と期待が満ちた時期だった。 若さがあり追憶があり郷愁があり、そして未来があった。 いまでも思うが、一見てんでバラバラなエッセイに、一本の筋道をたて、最終的には感動的な物語にしあげる手腕は、この時期の先生に叶う人はいない。 まあ、その分、うさんくささもあるといえばあるのだが。 腐女子第一世代(と云っていいのだろうか)である中島先生が、健全なマンガたちにどうやって煩悩をふくらませていったかがわかっていて微笑ましい。 こんなこと云っちゃうと、ちょっとアレなんですけど……ちょっと憧れちゃいますよね、男として。 「巨人の星」だの「伊賀の影丸」だの「ドカベン」だの、そういった健全な作品からいかがわしい妄想をする。 それが……腐女子なんですねえ。 当時のCOMなどのサブカルマンガ文化を、読者の視点で理解できるのも面白い。 というか、よく考えたらおれの当時のマンガ文化への見解は、この本による刷り込みがでかい。 だから実際どうなのかは、そんなによくわからんかもしれん。 話はだんだんとマンガから逸脱し、大学自体の思い出話になっていくのだが、この項が、今見るとまた面白い。 まあ、初読のときは中学生か高一かだったので、大学時代のこととか書かれても実感がなかったのだろう。 しかし、今の視点で見ると、なんと云うか、著者自身の気負いと若さ、周囲の人間の背伸び、大学生特有のそうした「おれはもう大人」的な空気が、なんとも苦く微笑ましい。 実際にそういうのと接している間は、鬱陶しいことこの上ないんだけどね。 ともかく、これは青春物語として、よく出来たお話である。 エッセイという形式ではあるが、藤子不二雄の『まんが道』に比肩する作品だと、 個人的には思っている。 中島先生の語り口が嫌いじゃなくて、70年代文化に興味のある人には、是非読んでもらいたい。
栗本薫・中島梓が雑誌や他人の本の巻末で書いた解説などを一冊にまとめたもの。 芸風は大体3パターンにわけられる。 1.評論家ヅラして小難しいことをがんばって云っているもの 2.「〜〜さん好きなんです〜」という完全なるファントーク 3.ファントークかと思いきや、気がついたらいつの間にか評論めいているもの 1は『道化師と神』の項で散々こき下ろしたように、そもそも梓に評論家は無理。 一般的な評に逆らってやろう、という気持ちが先行しすぎて、なにいいたいのかわからんのがほとんど。論自体がピンぼけしているのも多い。 2は、素直にファンなんだなあ、という感じで微笑ましい。およそ解説にはなっていないが、作品や作家が楽しそうに見えてくるので、とても良いことだ。 3は、梓の真骨頂。のちに『わが心のフラッシュマン』などに結実する、駄話を聞いているうちに勉強になったような気になってしまうという、梓ならではの芸風。 いわばこのハーフ評論こそが、中島梓独自にして最適な語り口。 五木寛之論は1。 カッコイイと思いながらカッコよさそうなことをやるのはカッコ悪いことだが、それを承知のうえでなおカッコイイことをやる五木寛之はやっぱりカッコイイ、というどうでもいいことをぐねぐねと語っている。 野坂昭如論は1。 結局最後に引用された筒井康隆の一文「黒メガネをかけた、あまりうまくない新人歌手がいる。この歌手がたまたま書いた小説を読んだが、まことに面白かった。本業よりもうまいくらいだ」をまずい言葉で言い直しているだけだ。 筒井康隆論は1と2。 本人も云っているとおり、論が固まっていないため、支離滅裂。 『男たちのかいた絵』の解説は2のファントークになっているため良い。 ただ、筒井先生もきっとヤクザ映画が好きなんだろうって、筒井先生が役者くずれだって知らんかったのか、梓は。 星新一論、小松左京論、光瀬龍論は3。 『道化師と神』よりよっぽとまともでもあれば面白いことを云っている。なによりご三方の本が読みたくなる。つうか光瀬龍は読もう。 矢野徹、田中光二、赤川次郎、阿久悠、池波正太郎は2。 作品に対してというよりか、作者への勝手な思慕がにじみ出ていて可愛らしい。 特に池波正太郎作品への「ご飯おいしそうだから最高!」という言は最高に無邪気でいい。自分を「食いたしんぼ」(自分の許容量よりも食べだがり、腹いっぱいでも未練がましく口に物入れて舌で味わいたがる人種らしい)と云っているし。実に云いえて妙。 林真理子、小泉喜美子、佐藤愛子、田辺聖子は2。 勝手に女学校の先輩後輩みたいな気持ちを抱いて気安く接している頭の弱そうな感じが可愛らしい。 都築道夫、鮎川哲也、横溝正史、江戸川乱歩へはなぜか1。 都築道夫へは、オリジナリティを追求しないから色々やるし、だからこそその形式でなにが読者の気持ちをとらえているかを理解している、という、それお前の勝手な親近感だろという論を展開。 横溝正史には「正史世界は母が云々」とぶっていたが、なんかピンぼけ。 正史ワールドの基本は「人間関係は狭ければ狭いほどこじれた時に陰惨になる」というだけの話だと思うので、薫の論は牽強付会に過ぎる。 まったく余談だが、そういえば薫はミステリーにおいて、トリックが暴かれる瞬間のカタルシスをまったく重視しない、というか味わったこともないようだ。 自分的にはミステリーの一方の楽しみとは、犯人という芸術家によって築かれた比類のない幻想が、名探偵という破壊者によって他愛のない現実へと落ちてくる、その瞬間のカタルシスにある。 そしてまた、破壊者でありながら、だからこそ名探偵こそが犯人の芸術をもっとも理解しているという奇妙な共犯関係こそが、あの世界を彩るいかがわしさの本質だ。 薫はミステリーにおいて、そういったいかがわしさはあまり感じなかったのかな? 栗本ミステリーの色気のなさは伊集院大介の性格によるものかと思っていたが、どうも薫の読者体験の偏りによるもののような気がしてきた。 太宰治には2で、昔かぶれていたけど、あとで三島の方に傾倒したし、いまとなっては太宰ちゃんかわいいよね、という感じで、いずれにせよ、太宰は女心をくすぐるのだなあ、と感心した。 埴谷雄嵩には1で、SF論をぶっていた。 全体的に。寝言なので読み飛ばした。 時々、一人称が「ぼく」で書かれている論があるが、それは総じて出来が悪い。 ぼくはオタクなので痛い「ボク女」がけっこう嫌いではない。 だが薫、てめーはダメだ。 だってなんか板についてないし。 総じて、やはり薫は評論家ではなく、よくしゃべる一ファンなんだな、と思った。 その立場でいる間は、薫は非常に輝いている。 言葉の端々からさまざまな本への愛がうかがえるし、なにより読書量がマジパネェ。 これがのちに解説を受けた本すら読まなくなるというのだから、月日というのはおそろしいものだ…… (09/1/7)
JUNE誌上で連載されていた、小説の道場。 ちなみに門弟の作品がいくつか載っている旧版の方。 これは、はっきりいってぼくのバイブルである。 ここには小説を書くときのテクニック、心構え、それらのすべてがある。 それこそ言葉遣いや段落の分け方、人称の使い分けや、視点の使い方などの基本的なことから、どんな作者の心理が作品をダメにしているのかまで、一つ一つの作品を、時には小気味よくざっぱりと、時には綿密に指導している。 才能がある人間がいる。ない人間もいる。 さまざまな人間が小説という一つの山に挑むその軌跡が、ここにはある。 その姿自体が、一つの物語として、こちらの心を揺さぶってくる。 同時に、純粋に笑える面もある。 なにせBL限定の小説道場だから、とんでもない作品がまあ、やってくるやってくる。 「二番もあるんだぜ」の『影人たちの鎮魂歌』やメルルーサ神、「あなたと真夜中に裸で相撲をとる夢を見るんです」のどすこいJUNEなど、とんでもないものがどんどなん出てきて、普通に笑える。 みんな色々考えるものだ。悪い意味でも。 前述とおり、この旧版には門弟の作品もいくつか載っているわけだが、 これがなるほど、ヘタクソである。 普通に暮らしていたら滅多に見られない(現在はネットでけっこう見られるけど)<「下手な小説」というものを、どこがどう下手なのか、プロ作家の解説つきで読めるのは、なかなかに貴重かもしれない。 しかし下手だ。そして無駄に情熱的だ。 この情熱こそが、もっとも大切なものなのかもしれない。 そういうもろもろのすべてを含めて。 この本を読むと、小説が書きたくなる。 なにかをしてやろうという気持ちになる。 気持ちが盛り上がる。血が沸き立つ。 生きる気力なのだ。 こういう本は、滅多にない。 JUNE小説という、非常に限定されたジャンルではあるが、創作をする人間にとって、この本を読むことは絶対に悪いことじゃない。 是非、一人でも多くの人に読んでみて欲しい
中国ドキュメントエッセイ。 栗本薫が友達の漫画家・木原敏江と芳村梨絵と一緒にシルクロードを旅してきたので、二人でその様子をご紹介しますよ、というそれ以上手でもそれ以下でもない企画。 正直、ボリューム的比重的に、木原敏江の分のほうが多いので、 うちで取り上げるのもどうかという疑問もあったが、まあ、中身は三十女が三人、憧れの砂漠できゃいきゃい云ってるだけのかわいいものです。 つうか、あれだな、ほとんど栗本薫の名前は客寄せと言っても過言ではないな。この頃は栗本薫の方が商売的に格上だったのか? それにしても思うのは。 こんなに仲が良かった栗本・木原の交友はどうなったのだ? こう云ってはなんだが、元来、交友範囲の広い人というのは、その交友の移り変わりで、その人自身の趨勢が占えると思うのだが、実にいまの栗本先生の交友範囲はなっていない。 自分より格上の相手とたくさん友達だったこの頃に比べて、いまは格下の素人やお抱え役者とつるんでいるだけ。 やっぱ人間関係って大切なのかのう…… と、友達のいないおれが云ってみる。 |