長編ミステリー? ミステリーとは呼べんか。 石森信がリーダーをつとめるバンドのグルーピーが、殺された。 信はその殺された女・ライのことがなんとはなしに気になって調べはじめたが、知れば知るほど、淋しい女だということがわかるのであった。 『ライク・ア・ローリングストーン』(『ライク・ア・ローリングストーン収録』)や『ワン・ウェイチケット』(『天国への階段』収録)とほぼ同じテーマ。 つまり田舎娘が都会デビューして輝こうとするけど、なんの才能もなくそもそもしたいこともないからなんにもできずに野垂れ死ぬ、という話。 とにかく文体がダサカッコイイ。 33のロッカーである主人公の一人称なんだが、インテリでプータローの流れ者というのが実によくあらわせている。 出版された1987年という時代を考えると、明らかに10年くらい遅れているんだが、そこがまた主人公のおっさんロッカーぶりと(偶然)リンクしている感じで、いい味を醸しだしている。 しゃべり下手なロッカー仲間との会話は、いかにもダメ人間同士という感じで、実にイイ。 主人公の信は『ぼくらの時代』シリーズに登場した、薫くんの親友の石森信その人で、今までの作品を知らなくても楽しめるし、知っていればより楽しめるという、この按配は実に見事。 また、前作までの下積みがあるので、信のキャラクターが確立されているのも強い。 しかしなによりも見所は、ダメな女に対する共感具合だろう。 すぐばれる嘘ばかり吐き、盗癖があり、ひけもしないギターを担ぎ、公衆便所あつかいされ、恋人もなく、住む場所もなく、友達の一人もいない、淋しいままに、強姦されて殺された、そんなダメな女の、なにもないけど輝きたいという想いに、作者が激しい共感を示している。 栗本薫も、またそうだったからだ。 輝きたいと想いつづけ、マンガを描き、バンドをやり、彼氏をつくり、人の集まるところに出向き、とにかく、何者かであろうとした。しかし彼女はなんの才能も示せなかった。ただ小説だけしか、彼女にはなかった。 もし小説の才能がなかったら、自分も同じだったと、そう想っているからこそ、共感して書けるのだ。 同情ではない。共感なのだ。 宮部みゆきの小説に『火車』というのがある。 とある不幸な女性の、カードローンにはじまる悲運の人生を追うサスペンスで、彼女のベストに押す人も多い名作だ。 その構成の巧みさ、ローン地獄をあつかった題材選びの巧みさと取材の確かさ、脇役にいたるまでの丁寧な描写、どれをとっても一級品の、たしかに名作だ。 しかし、それでもなお、そこにあるのは同情だった。 なにも上から目線だ、などというつもりはない。宮部みゆきはそんな人間ではない。きちんと不幸な女と同じ場所に立って物を見ようとはしている。誠実な書き方をしている。 だが、共感してはいない。共に感じてはいないのだ。 栗本薫は、そこが違う。 彼女は、少なからず一方的な思いこみであるとはいえ、確かに共に感じてくれている。 そして、読者までをも、その共感に引きずりこむ。 優れた構成力も緻密な文章力も斬新なオリジナリティも持たぬ彼女が、唯一、他の作家を圧倒していたのは、この伝染性の共感力とでも呼ぶべきものだ。 彼女の読者が熱狂的になるのは共感しているからであり、また彼女から離れた読者が強烈なアンチになるのは、かつての共感がまがい物であったことに対して、裏切りと恥ずかしさを感じているからだろう。 「あるかなきかの如く」を理想としう栗本薫の文体は、その共感に大きな力を発揮する。 今作でもまた、彼女の滑らかな文体が、次から次へとわかる少女の淋しい人生と、それを受け止める33のロッカーの気持ちをストレートに読者の心に叩きつけ、どんどんと読み進めていってしまう。 大きなストーリーなどなにもない、だが栗本薫らしい傑作 ……と、云いたいところだが、後半三分の一くらい、ここら辺からあからさまな枚数稼ぎをはじめているのがよくない。 いつも通りにあまり意味のない長台詞と、前半と同じようなことを云っている物思いの連発で、いいから早く終われよという気分になってくる。 オチも特に考えてなかったのだろう、特になにも落ちないまま、ページ数が尽きたので勝手に終わる。 元々短編だったストーリーを長編に膨らませようとしても、結局うまくいかない、といったところか。 後半の著しいぐだぐだがなければ名作と胸を張って紹介できたのに、薫はいつもこういうところが惜しい。残念だ。 とはいえ、途中まではこちらの心をわしづかみにする、負け犬属性・はぐれ者属性持ちの、いわば純・薫ファンにはたまらない作品ではある
長編ミステリー。伊集院大介シリーズ。 怪人シリウスとの対決第二弾。今度はお家物だ! というわけで、美貌の女形、女形? おやまだっけなあ。日本舞踊の天才だっけ?ま、どっちでもいいからキニ・スン・ナ とにかく、美青年の吉沢胡蝶をめぐり、お家の怨念や因習のあれやそれやがこんぐろまりっとしながら、いろいろあって、続く。みたいな。 とにかく「続く」はないだろ、続くは。 そして数年放置はないだろ。 おれなんて、この天狼星シリーズ、ひいては伊集院大介シリーズは、このまま中絶して消え去るだけだと思い込んでいたよ。 こういうのは本当に困る。 で、話の内容ですけど、えーと、面倒だからパスします。 ちょっとだけ言及すると、吉沢胡蝶という人間が薄っぺらい。 薄っぺらいとか言ったら失礼なんだが、ありきたりの美形でして、作者の脳内での美形度と読者に伝わる美形度がずれると、たいそう痛々しいことになるのですが、いま現在の栗本作品ではデフォルトですけど、個人的にはじめてそれを味わったのがこの人かなあ。 なんか、やたら言葉で飾られていて、行動や台詞が伴っていないから、はあ、綺麗なんですか。そりゃよござんしたね。という気持ちになる。 で、なにがまずいって、そういうキャラに限って作品全体のキーキャラクターだったりすることで、いやあ、どうでもいいんだよね、吉沢胡蝶さん。 誘拐されようが拷問されようが殺されようが。 なのに伊集院さんがいつになくあたふたするから「あっれー?」みたいな。 ヒロインとしての魅力は1の田宮怜や3の竜崎晶より全然ないと思うんだよねえ。 あ、そうそう。1の時点で書き忘れていたけど理解に苦しむ点の一つに、ワトソン役の降板がある。 初期伊集院シリーズは、伊集院大介の友人である作家の「森薫」という女性が書いているという設定で、(『エマ』を描いた漫画家・森薫さんとはなにも関係ありません)この人が伊集院大介に恋とも友情ともつかぬもやもやを持っているので、それが作品にいい艶を与えてくれていた。 ありていに云えば、ラブコメ的に「この二人くっつくのかなー?」という楽しみがあった。 が、このあからさまに作者を連想させながら、作者自身は「私とはまったく違う、あんまり好きじゃないキャラ」と言及していたこの森薫、天狼星の時点で、いままで出てきもしなかったキャラと結婚。 この後、シリーズ中からほとんど姿を消すことになる。 作品の色を変えるのに邪魔というか、お歎美するのに邪魔だったのかもしれないけど、なにもねえ、シリーズから姿を消すことないじゃないのよ。 この後、新しいワトソン役は二転三転をくりかえし、結局「やっぱホモかよ!」みたいなところに落ち着いてしまって、のコンビも最初はそこそこ良かったけど、最近はめっきりコンビという感じがしなくて、 んーーーーーーーーー。 正直、最初のトリオ、すなわち天然伊集院、おせっかいな森薫、カタブツな山科警部補、の三人組が、一番おさまりが良かったと思うんだけどなあ。 なーんで変えちゃうのかねえ。 そういう面を考えると、本当に天狼星シリーズは失敗だった。 天狼星プロダクションも存在しないほうが良かったのかも知れない。 そうすればみんなが幸せなまま、あの黄金時代の夢にまどろみつづけられたのかも知れない。 これはみんな悪夢…… いや……いい……夢だった……
長編SFシリーズ第一巻。 サイボーグのブルーが、謎の美女に出会って銀河をさらばしちゃうらしい話。 1とか銘うっておきながら、永遠に二巻が出ることのなかったThe・中絶作品。 評価のしようがねえ。 そんなに面白い作品ではないことは確かだが、なにせ導入部だけで終わってるもんなあ。 サイボーグの機械的合理的なな思考を表現しようとしている部分だけが、ちょっと面白いけど、サイボーグの思考ってこうじゃないだろw とか冷静に思う。 続かなかったのは残念だが、さて、続いたところで面白くなったかどうかは疑問。 挿絵のいのまたむつみは、この時期はまだ絵がうまかった時期だな、 ということだけが印象に残る。
くたばれグルメっていう話。 要するに、最近(当時のね)グルメ雑誌や番組が多くて、あまのじゃくな梓としては「くたばれグルメ!」と云いたくもなっちゃうよ、というだけの話。 云わんとしていることがくだらないことだから、内容も当然くだらないが、不思議と読ませるのはあずさマジック。 人間は「着道楽」と「食道楽」の二つに大別できて、着道楽の人間は明るく食道楽は内向的であるとか、私の祖父は有名レストランのおえらいさんであったから、幼い頃からグルメにいそしんでいたとか、学生時代、いつもまったく同じ弁当を作ってもらい、それ以外は食べようともしなかった、ちなみに弁当にも食べ方というのがあって、これも間違ってはいけない、とか、そんな「んなこと知るかよ!」としか云いようがない事柄を、これはもう軽妙に自信たっぷりにぬかしつづける。 なんか面白いです。頭悪くて。 関係ないが、おれもよく人間を何種類かに大別したり、それに関してもっともらしい屁理屈を並べ立てたりするくせがあるが、思えばこれはまったくもって梓先生の影響なのだな、と読みながら再確認した。 正しいかどうかじゃないよね。 云ったその瞬間、本人の中で理屈が一本の線としてつながってればそれでいいんだよね。 しかし、このエッセイを読むと、梓は一人前もよう食べられぬ小食で、旦那は三人前もたいらげる大食漢らしい。 しかして現在、梓先生は立派な巨人であり、旦那はガリガリである。 人体の神秘というべきか、年月のマジックというべきか。ただのデマと見るべきか。 真実はだれにもわからない。ただ体重計だけが知っているるる。 で、話はあいかわらす食を契機にあっちいったりこっちいったりよろよろしながら、なんとなく壮大な結論めいたものがでて、希望に満ちておわる。 内容はないような本ですが、しかし面白い。 このとりとめのなさがいいんだろうか。 ふり幅が広いのが良いのかも知れない。 自己陶酔と露悪趣味が平然とくりかえされ、なんか知らんがまとまっている。 キャッチーさと愛嬌がある。 うそ臭いし説得力もあるし、こいつアホだと思いながら、ほうほうと感心したりもする。 人格の魅力としていいようがないのだろうか。 冷静に考えれば、いま現在の神楽坂倶楽部でのエッセイも、書いている内容自体はこれと大差ないんだが、なにか余裕というか愛嬌というか、些細な、しかしもっとも肝心なものが失われているような気がしてならない。 (爆)がいけないのかな。きっと(爆)がいけないんだ。 よくわからないからそういうことにしておこう。 このエッセイ自体は普通に面白いです。 でも、アンチグルメ本じゃなくて、中島梓の自分語りだな、こりゃ。 とにかくジャンクフード類のうまそうな描写がたまらない。ある意味つまみぐい文学。
吉村作治のピラミッド話を薫「へぇーへぇー」と聞いているだけで、別に栗本薫である必然性は微塵もない本だった。 なんでこんな本出したんだろう?と思っていたら、このレクチュア・ブックスというのは、専門家に作家が話を聞くシリーズなのね。 専門分野的には素人同然の作家が質問することで、質問内容が読者に近いレベルになるし、共著にすることによって作家のファンにも購買させようという、一石二鳥な企画だったんだろう。ついでに作家も興味ある分野について勉強できるし。 内容に関しては、そりゃ吉村作治だし、わかりやすくそして丁寧で、ところどころちょっとおかしい感じだった。ので、作治ファンやピラミッド好きには嬉しいと思うが、しかしその一方でやはり二十年前の本なので、研究が古いわけで、いま読むにはどうなんだろうねっていう本。 そもそも自分はそんなにエジプト文明に興味ないので、豊潤に用意されたピラミッドの写真や図を流し見てしまったし、説明もわりと右から左だった。興味のない人間が読む本じゃねーなー、やっぱり。 やたらと「僕ははじめから気が狂ってるから大丈夫」と主張したり、「人類は滅びますね」と断言する作治が唯一の見所だったかな。 |