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栗本薫 1988年


  朝日のあたる家1.2. ∈(゚◎゚)∋うなぎ∈(゚◎゚)∋ 

朝日のあたる家〈1〉 (角川ルビー文庫)
栗本 薫
角川書店




大長編やおい。
『翼あるもの』の続編に当たる。

大人気アイドル・ジョニーこと今西良とかつて人気を二分したライバル・森田透。
幾多の恩讐を越え、透は芸能界から身をひき、ジゴロとして生計を立てていた。
怠惰で退廃的な生活の中、良きパートナーとなった島津に見守られ、穏やかな時間を取り戻しつつある透。
しかし、そんな透の前に、薬で身を持ち崩した今西良が姿をあらわして――

これについて語るのかあ、と感慨もひとしおである。
この作品に出会ったことは、自分の中の革命であった。
思春期に、誰もが一つは手にするであろう、心の宝物。
それが、自分にとっては、この小説であった。
なんてこんなものが宝物なんだ? と冷静に問い詰められても困る。
この作品の中に在った空気。
それは今までに触れたこともなく、また今にいたってなお、他で触れることのできない、特別なものだったのだ。
透の抱えた痛みは自分の幼い心をたしかにえぐり、自分の中のなにかを確かに救ってくれたのだ。
「物語とはここまで人の心に入り込めるのだ」
「小説とは、救いになりうるのだ」
そう思ったのだ。

冷静に見れば、陳腐なストーリーかもしれない。
なにが優れているかと問われれば、答えられないかもしれない。
それでも、この物語がここに在り、森田透がそこにいたということが、私には救いであったのだ、と言うしかない。
身を焦がすような憧憬と、引き裂かれるような共感とがここにあった。
未来への希望と絶望とが、ともにここにあった。
私の進むべき道が、手にしていないすべてのものが、ここにあった。

私はこの作品に、是非を問えない。
この作品を書いたという、その一事をもってだけで、私は栗本薫のすべてを許すだろう。

なお、ルビー文庫版の表紙・挿絵については全力で見なかったことにさせていただく。





  アンティック・ド−ルは歌わない  うな

アンティック・ドールは歌わない―カルメン登場 (新潮文庫)
栗本 薫
新潮社




連作短編集。
愛の狩人・スーパーレズビアンのカルメンが、いなくなってしまった子猫ちゃんを探して街をうろついては、不幸な女に出会う話。

どこにでもいる不運な女を描く、という着眼点は悪くないのだが、主人公のカルメンさんが恥ずかしい。本気で恥ずかしい。
カッコイイ女、戦う女、情熱の女、というのをやたらプッシュしていて、むしろちょっときもい。リアリティまったくないし。
薫はどうしてこうもレズのタチを描くのがド下手なのか。
とにかく読んでいていちいち身悶えしてしまう。

おとなしく別の主人公で普通に描いて欲しかった。






  滅びの風  うなぎ∈(゚◎゚)∋

滅びの風 (ハヤカワ文庫JA)
栗本 薫
早川書房




滅びをテーマにしたSF短編集。

★『滅びの風』
未来社会、夜半に目覚めた若夫婦は「おれたちは滅んでいくのかもしれない」という理由もない確信にとらわれる。


★『滅びの風U』
滅びのいくつかの光景を抽出。
真夜中に戦車の行軍を目撃する少年。
カイロにて滅びを思う作者。
現代東京における、空虚な若者たちの会話。
そして核ミサイル。


★『巨象の道』
エイズにかかった夫婦が、アフリカ旅行で得た想い。


★『コギト』
ある朝、目覚めると、自分以外の人間が消滅していた。
しかし少女はその現実を静かに受け止める。


★『返歌』
人類が滅びたあとの地球の光景。


過大評価が過ぎるかもしれない。
しかし、この作品にたゆたう滅びの予兆は、静かであるゆえに、なによりも重く心に響く。
安易な結論を出してしまいがちな栗本薫が、敢えて結論を読者に委ねているのがうまく作用している。
国の滅び、種の滅び、個人の滅び。
あらゆるケースの滅びを、自在な筆致で書き分ける筆力は見事の一言。
この時期(1988年)あたりは、もっとも彼女の筆に脂が乗っているときではないだろうか。
デビュー間もなくに散見する他の作家の影響はほどよい具合になりをひそめ、彼女独自の情緒豊かさが、女性ならではの機微の繊細さと女性らしからぬ筆致の太さに支えられ、染み込むように読者の心に入り込んでくる。
私にとっての理想となる文章が、この時期の栗本薫の文章である。

『巨象の道』に見られる、ありふれた人々の確かさ。
『返歌』に見られる研ぎ澄まされた言葉選びのセンスとリズム。
『コギト』での心理描写の深さ。
いずれも一級品と断言してもいい。
ことに好きなのは『コギト』だ。 心を閉じた人間の攻撃性と自己防衛の心理を、ここまで鋭く優しく描けるのは、栗本薫しかいまい。
おすすめである。






  わが心のフラッシュマン(中島梓)  うな∈(゚◎゚)∋ 

わが心のフラッシュマン (ちくま文庫―ロマン革命)
中島 梓
筑摩書房


評論本。

……これを評論といっていいのか?
息子が『超新星フラッシュマン』にはまった経緯と、それに関して思った四方山ごとを、妄想もあらわに書いています。

面白いのは、中島家にはテレビがないので、息子は『テレビくん』やら絵本やらだけでフラッシュマンにはまって、実物は一度も見たことがないという、その部分でして。
ちなみにぼくもフラッシュマンは見ていた世代だったりする。

これ、当時から「戦隊物を侮辱している」ってことで、ずいぶんと叩かれたり嫌われたりしたみたいですが、まあ、その言い分はまったくもって確かで、中島先生は失礼千万極まりない無礼者だと思うんですが、それでもなお、私はこの本に全面同意したいですな。

フラッシュマンを馬鹿にしているってのは、確かに表面的に見ればそうだけど、この本においてフラッシュマンってのは
「金や技術や実力が足りなくて理想とかけ離れてしまった現物」
の代表例であって、決してフラッシュマン自体を貶めているわけではない。
いや、言い方はかなり悪いけどさ。
そこで対となる例として自作や自分の妄想をあげるから評論としての論点がずれるんだけど(でも、その部分が個人的には面白いです)
「重要なのは結果としてあらわれる現実ではない」
「現実を通してみる、製作者の見たロマン、幻想にこそ、視聴者は魅了される」
という論は、評論と呼ぶには感情的に過ぎると思うが、ぼくはこのロマン主義がとても好きだ。

後半、したり顔で小難しいことがずいぶんと並んでいるが、そんなのはどうでもいい。
ロマンこそがもっとも重要であるという、この本の論旨がぼくはとても好きだし、軽妙な語り口も妙に感動的なオチのつけ方も好きだ。
そしてこの本を指して「安っぽい」だの「戦隊物を馬鹿にした」だの、そういう受け取り方をする人が、ぼくは嫌いだ。
自分の好きなものを馬鹿にされたという事実に頭に血が上り、その意味を考えられなくなっている。

だから、栗本先生には、下手でもいいから、もっと素敵なロマンを追いかけて欲しいと思います。本当に、心の底から。









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