時代伝奇小説。 「おれはバサラだ」 出雲の阿国の前にあらわれた型破りな河原者、弥勒丸。 阿国は弥勒丸の音楽と性的魅力にひかれていく…… 時代の裏で流れつづけるロックスピリッツを描いた作品。 えーと、三巻まで出ているけど、まとめて。 これ、角川お家騒動のゴタゴタにまきこまれて、中絶されちゃったんだよね。 で、続きが出る目処はないし、三巻までもっててもしょうがないしで、いま手元にないし、集める気もない。 そして内容的にも、別に面白くない。 そもそも、フリーセックスで魂のぶつかり合いのロックってなんかちょっと、恥ずかしい。 三巻まで読んでも、あんまり話に進展がなかったし、二部以降は現代篇の予定らしかったが、それはそれで寒い展開になりそうなので中絶されてよかったような気がしてならない。 全体、栗本薫は音楽を語るとよくない。 はっきり言ってしまうと、才能がないんだ、これ。 理屈じゃない部分でやるものだから、栗本先生みたいにヘ理屈をこねくりだす人と対極にある分野なんだよね。 だからこそ憧れる気持ちはわかるが、彼女のリズム感でロックは無理がある。 この作品からロックの魅力は感じなかった。 まあ、ぼくはロックが好きじゃないんですけれども。 だからまあ、中絶されて、読者にも作者にも時間の無駄にならずとても良いことだったんじゃないかしら? (この後、ハルキノベルズで夢幻戦記やったんだから、結果的には似たようなものだったわけだが)
長編ミステリー第三弾、そしてシリーズ完結編。 力みすぎてへんてこになった1、あからさまに失敗作な2を経て、数年の放置の後に満を持して出された完結編。 天狼星シリーズ自体が空回り気味の空気を漂わせていたのだが……しかし、これは良かった。 乱歩的怪奇趣味、横溝的閉鎖社会に加え、栗本薫の美少年趣味と名探偵ものへの憧憬、そこへ軽妙な語り口による鮮やかな展開が見事に融合し、栗本薫が幾度も挑み失敗を繰り返した怪奇小説の、唯一の成功作となっている。 まずオープニング、シリーズでありながら、まったくの新キャラクター竜崎晶を主人公に据え、伊集院大介もシリウスもまるで出てこないままにストーリーが進んでいくことが面白い。 いったいどこが天狼星なのだ? と疑問に思っていると、中盤で見事にだまされる。 竜崎晶のキャラクターもいい。 栗本薫の美少年キャラの中でも、稀有な成功例であろう。少年と青年の端境期に立ち、何者かになろうとしている姿が非常に魅力的だ。 この少年の成長物語が、殺人鬼シリウスの悲劇とからみあい、最後にシリウスの本当の姿とでも云おうか、本物の怪人などにはなり得なかったシリウスの姿をあばいて幕とするのは、なんとも鮮やか。 やや長い作品ではあるが、全体の構成、先をぐいぐいと読ませる展開と文章、伊集院大介シリーズの中でも異例の「そう来たか!」と驚かされるどんでん返し。 一部、吉沢胡蝶に関するエピソードが実感を欠くものの、ほかの部分ではいじるところがないほどに、完璧に近い作品。 などと云っては明らかにほめ過ぎなのだが。 乱歩、正史へのリスペクトが、見事に結実した唯一の作品として、読んで損はないだろう。 問題は、この前に二冊ほど凡作を読まなきゃいけないことなのだが。
長編ホラー。 結婚して二十五年。ついに念願のマイホームを手に入れた規子。 しかし、その新居では次々と奇怪な出来事が起き―― 心理ホラーの白眉。 おそらく元ネタはアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』だろう。 どこまでも美しく綺麗で、だからこそ空虚なマイホーム。 そこに囚われた主婦が次第に気づいていく自らの心の闇。 目をつぶりつづけてきた家庭の真の姿。 栗本薫独特の情感のこもったねちっこい文章は肌にまとわりつくような不快感をともない恐怖感を煽り、ありふれた家庭の、ありふれた崩壊を効果的に演出する。 この物語で断罪されるのは、己ばかりを愛した罪だ。 自己愛が目を曇らせ、悲しみを呼ぶ。 だが、だれに自己愛を責められよう。 自分を可愛いと思い、自分の心を守ることを、だれが責められよう。 醜い、受容れがたい現実から目をそらし、都合のいい夢ばかりを信じた愚かさを、誰に笑えるだろう。 そこにあるのは、ありふれた狂気と恐怖だ。 だからこそ、怖いし、悲しい。 『春にして君を離れ』を見事に換骨奪胎し、ジャンルまでも変え、新たな作品として息吹を与えた栗本薫らしい、栗本薫にしか書けないホラーの傑作だと思う。 し・か・し…… これを書ける人が、なんでいまのような状況に陥るんだ? 都合の悪いことから目を伏せることの恐ろしさをこれほどまでにえぐりとった作品、そうそうないんですけど。 なんで? ねえなんで?
そういえば未読である さがしてみよう
なんだろう?ある意味ノワール? 凡庸な生活を続けていたOLの主人公はある日、歳下の不良少年にナンパされ、少年の直情と荒れ狂うSEXにまきこまれるうちに、彼女の中にいたメスが目覚め始める。 下品なミニスカートを吐き、会社をさぼって少年に連れまわされる主人公。 気がつけば、アイドル誘拐の片棒を担がされることになっていたのだが…… えーと、この頃からですかね 「あれ? この話ってこんなにページ数必要かな?」 と思う作品が目につき始めたのは。 悪くはないんですけどね。嫌いじゃない。 ただ、好きじゃないんだね。SEX漬けで性格が変わっていくっていうの。 破滅型の人間にどうしようもなくひかれてしまう心情は嫌いじゃなく、「夏は終わった」というラストも決まってると思う。 ただ、どうだろう? 肝心の誘拐事件の顛末がおざなりでSEXシーンが長いせいで、げっぷがでるばかりだった。 これ、エロシーンを削りまくって半分の長さにしたら、けっこういい話になつたと思うんだけどね。 一冊やるような話じゃ、断じてない。
怪奇というか耽美というか、そんな短編集。 ★『蝦蟇』 ある田舎に住む柔道講師が、幼馴染である美青年を犯して殺す。 その心理過程を、少年時代に起きた小さな事件をもとに語る話。 ★『蜥蜴』 蝦蟇の話を、殺された青年側から語った蝦蟇と対になる話。 ★『蜘蛛』 ある田舎の山奥で、化け物のように醜怪な男に育てられた美少年の話 おっかしいなー これ、昔読んだときはかなり面白かった気がしたんだよね。 でも、不思議なことにストーリーをほとんど覚えてなくてさ。 それで心の中で曖昧な評価のままだったのだけれども。 で、家の奥底をよーく調べてみたら、あったあった、ありましたよ。 ちゃんと眠っていました。 そしてちゃんと再読してびっくり。 これ、そんなに面白くない 正確に云うと、最初の「蝦蟇」は面白い。 バカで愚図で醜くて、喋る言葉ももたず、ただ幼馴染の美しい少年に憧れるしかなかった一人の人間の、粘着質で気持ち悪い内面をこれでもかと雄弁に語っている。本当にもう、マジでキモイ。たまらなくキモイ。 だがそれがいい(ニカッ) 本人が自覚しているのかいないのかわからないが、『ライク・ア・ローリングストーン』に収録された話といい、今作といい、またグイン・サーガに出てくるアリストートスといい、彼女の描く醜いキャラの内面のキモさにはオリジナリティーがあり、クォリティーも非常に高い。彼女の持つ唯一のオリジナリティーとすら云っていい。 というのも、彼ら醜悪キャラというのは、もう明らかに栗本薫を、というか山田純代の少女時代の鬱屈をモチーフにしたキャラで、その証拠として彼らは常に母親的存在に「愚図な子ダメな子気持ち悪い子」と云われながら育ってきている。 実際の純代少女の母親は、ぶつくさ口うるさく云いながらも娘をちゃんとしたお嬢様高校に入れ、弁当も毎朝娘の云うとおりに変てこなお弁当を作り、大学を卒業したあとニートしちゃってる娘を実家で養うなど、実に母親としての仕事はきちんとこなしているのだが、それでもぶつくさ云われつづけた鬱屈は純代少女の中に蓄積されつづけていたのだろう。 思うに、彼女を「美人な娘、可愛い娘、よくできた娘」として扱わず「手のかかる目が離せない子」として母親が認識していたっぽいのが、本人にはいたく不服だったのだろうが、結果として「手のかかる目が離せない子」だったんだからしょうがないんではないか。 ま、それはそれとして、そんな彼女の鬱屈を誇張してつまくってつくられた彼ら醜いキャラたちは、実にいつもいい仕事をしてくれる。 今作『蝦蟇』でも自分がいかに醜く、蝦蟇に似ていて、それゆえにこそ美しい従兄弟に執着し、ついには犯して殺す心理が、理屈じゃない部分で理解できる。 特に美少年をもう一人の自分だとして、それを自分の中に収めることによって美しいものとの一体化をはかろうとする歪んだアンドロギュヌス幻想には、慄然としながらも否定できない魅力がある。 展開も序破急で枚数に見合ったものであり、時々文章に手抜きというか、いいかげんに書いたであろう部分や、やりすぎの部分も見受けられるが、この主人公の内面の執拗な描写の前ではすべてが問題なし。 切ない怪奇小説としてまずまずの秀作と云っていいだろう。 で、その対となる話である『蜥蜴』 これが良くなかった。 まず、美少年・美青年の心理描写がなっていない。 傲慢で高慢で天才肌で、というキャラクターなのだが、これは彼女の描くほとんどの高慢キャラに通じる部分なんだが、基本的にひどいことをするとき「私はひどい奴だ」と時に自省し、時に陶酔しながら行動する。これがまずいけない。 高慢な人間は自分が高慢であるという事実を認識すらしない、できない。あたりまえにやっていることが他人から見れば高慢傲慢であるもので、自分から「ぼくって傲慢だから」などと感じる人間はどっこも傲慢ではない。 実はこれ、彼女の金持ちキャラにも云えることで、金額のことなどはなから考えないのが真の金持ちであって「最高級の品の一番高いの」みたいなのを頼むのは金持ちでは断じてない。 金持ちと高慢がダメって、そんじゃナリス全否定じゃん。という向きもあるだろうが、その通り。栗本薫はナリスのようなキャラの内面を描くことがまったくできない人間なのだ。 グイン初期においてナリスがあれほど輝いていたのは、ナリスの内心がほとんど描写されず、リギアやイシュトなど、あまり恵まれていない周囲の人間の視点をもってナリスが描写されていたからだ。 初期ヴァレリウスとナリスの絡みが面白かったのも、底辺からなんとか人がましい地位を手に入れたどん底キャラであるヴァレリウスの視点を持って、批判的な目でナリスを見ていたからに他ならない。 さらに云えば、このヴァレリウスというキャラ自体が『蝦蟇』の主人公たちと根を同じくする「ダメな自分」の顕現なのだ。 本性は無口だけど、人前ではむやみに饒舌。表情は暗いがひょうきん者。斜めに構えていてネガティブ思考だが、根は正義漢。人間関係をわずらわしいと思いつつ世話焼きで、恋には純情。 これらの難しいキャラ造詣を脇役にも関わらず与えられ、なんなくこなしていたのは、ヴァレリウスが「ダメな自分がなんとか社会に適応していった姿」要するに大学くらいの時期の山田純代をベースに描かれていたからに相違あるまい。 対して、グイン本編ではじめてナリスの内面が大きく描かれたのは、たしかリンダとの恋話が進む『愛の嵐』だったと思うのだが、あそこはまったくもって良くなかった。なんでリンダなのかという心理がちっとも描けていなかったし、悪い意味でナリスらしくなかった。 彼女は本質的に「選ばれた存在」を外から愛憎をもって描写することは出来るが、内側から描写することができない人間なのだ。 若い頃、それを自覚していたようなふしもあって、たとえば彼女の「特別」をより集めた存在といえば今西良だが、『翼あるもの』上巻では今西良の心理も描いているが「真夜中の天使」になると視点は滝メインに移り『翼あるもの』下巻では透からの視点でしか良は描かれていない。 そしてあとになればなるほど作品の質は上がり、今西良の存在感も、出番と反比例して増している。 話がかなりわき道にそれたが『蜥蜴』に戻る。 今作はそうした「選ばれた特別な存在」である青年の心理を描いたものだが、上記等の理由をもって、まったく描写がなっていない。 『蝦蟇』のときはあれほど魅力的で高慢に見えた少年が、今作ではどこが美しいのかまるでわからない口だけボーヤになり、インテリ面はどちらかというとアホっぽく移り、女遊びの描写も「こんな奴は絶対もてねー!」と断言したくなってしまう感じだ。 なにより、なぜその特別な存在である青年が『蝦蟇』に惹かれたのか、その心理がまったくもって理解不能で、終盤、急に電波理論で十数ページを勢いで押し切ろうとしていたが、なに、こんなものでは読者は騙されませんよ。 昔、中島先生は小説道場で「どうしようもない時は必殺技である筆力でごまかす」と申されていたが、なるほど、今にして思えばこれが筆力でごまかすということか。残念ながらごまかしきれてはいませんが。 どんでん返しの一つやオチの一つもあれば(例えば『蜥蜴』は『蝦蟇』の主人公がなりきったつもりで語っているだけ、とか)そういうミステリーなのね、と納得もできるのだが、これじゃいかにもまずい。 思い返してみれば、これを読んだのはずいぶん昔で、ぼくはまだ乱歩も正史も久作も虫太郎も中井英夫も、まったく読んだ事がなかった。だからこそ楽しく読めた、ということなのだろうか。なんだか寂しい話だ。 ぼくはパクリやレプリカが悪いとは思わない人間だが、せめてオリジナルに比肩しなくては意味がないと思ってもいる。 実際、オリジナルに比肩しうるコピー作品なんてほとんどないのだが、栗本先生にはこの点でもう少しがんばって欲しかった。 そもそも栗本先生はこっち路線では横溝正史路線の人、つまり凡人で俗悪で大衆的な方の人であって、乱歩のような素の変態でも中井英夫のような無駄インテリでも久作のような狂人でもなかったのだが、どうも彼女は自分を乱歩タイプだと思っていたみたいで困る。 いいじゃないか、正史で。一番売れるし読み継がれるのは正史ですよ。その代わり、正史は稀代の名作も残しはしなかったけどさ。 あ『蜘蛛』に関してなにも云ってなかった。 これ、同じモチーフの話がレイ・ブラッドベリにありました。 萩尾望都が漫画化もしてます。『城』だっけな?タイトル。『古城』?忘れた。 ブラッドベリの方は、恐さと叙情とひねりの効いたオチが良い秀作です。さすが。 今作はその表面の設定だけとって、薫の萌えだけで出来ていました。 元ネタを知るって恐いなー。 なにが恐いって、その元ネタのほとんどを栗本先生が紹介してくれたってこと。 天然なんだろうなー、彼女。しみじみ。もにょもにょ
一巻につづいて、二巻も必読。 一巻はわりかし、小説の基本作法や基本技術について語ることが多かったのだが、門弟の成長によって、少々つっこんだ技術や心構えについて語られている。 相変わらず梓本人は出来ていないことのオンパレードだが、その言葉には不思議と説得力が満ちているし、何度読んでもためになるようなことが書かれている。是非とも読んで欲しい。 小説作法の本とする一方で、この本が面白いのは、門弟たちのキャラクター。 話は少し変わるが、昔、週刊少年ジャンプの巻末にある『ジャンプ放送局』が好きだった。 年に一度やるクイズ番組の『アメリカ横断ウルトラクイズ』も好きだった。 別に読者投稿には笑えるものなんかほとんどなかったし、クイズ自体も好きではないが、それらが好きだった。 ではどこが好きだったのかというと無名な人間が一斉にあつまり、さまざまなキャラクター性を発揮しながらランク付けされていくところだ。 いわば人間競馬的な、そういう楽しみがあった。馬よりも人間のほうがキャラクターがわかりやすい分、楽しいのだ。 そういう人間競馬的な楽しみでも、小説道場は実に素晴らしい。 本人たちは真面目に描いているんだから競馬などといったら失礼なのかもしれないが、しかし道場主の評価と気まぐれで級が上がり下がりするのがとても面白いのだ。競馬といって悪いのなら笑点だ。 そしてその中で、門弟たちの中にもどんどんいろんなキャラクターが生まれてくる。 ほとんど指導いらずの天才。 なのに、なぜか一番真面目に指導通りに修正をしてくる最高弟 江森備 小説の指導をされるというより、個性を認められただけでにぐんぐん伸びた変人 サーモンこと尾鮭あさみ なぜか一人で文学方向つきすすみ。 道場主に「わたしが教えるべきではないかもしれない」と云わしめ<結局映画評論家になったよくわからん人 石原郁子(ご冥福をお祈りします) 最初っからプロ志向一直線。 道場主に鼻っ柱を叩かれてもなお、商売路線一直線であっというまにベストセラー作家 秋月こお 道場史上、もっとも熱く、もっとも激しく説教をされ、そして開花した努力の凡人 柏枝真郷 などなど、実に多彩なキャラを発揮してくれている。 また不思議な話だが、やはりキャラクターの濃い人のほうが、どんどん上にあがってくるものなのだ。 読んでいると、自分も門弟の一人として、彼女らとともに励み、ともに笑い、ともに泣いた同門のような気がしてくるから不思議なことだ。そう感じた人は多いのではないだろうか? 実際の売上に比べ、この本が読者に与えた影響は非常に高いと思う。 直接の指導は受けてなくとも、この本を読んだ人間は、みな門弟であるかのような気分になれる。みんな同じ釜の飯を食った仲のような同朋気分だ。 一度も道場に投稿することないままであったが、自分は今でも、梓の小説道場の末席座らせてもらっていると、勝手に思っている。 しかし、師と仰いだからこそであろうか? 小説道場の熱心な読者であるほど、執筆の十割が虎眼先生@シグルイばりの曖昧なものになってしまった現状の薫に対する失望はでかい。 知人の薫ファン曰く 「だって道場で読者の読む力を育てて、散々ハードル高くしてから地の果てまで落ちるんだもん」 確かに。 ここまで読者をうるさく育てておきながら自分は落ちきるという離れ技を見せるとは、やはり中島先生はただものではない。 そういう現状のことは眼をつぶるとして、やはり何度読んでも小説道場は名著だ。 特にこの二巻までは熱くなれるし、泣けるし、ためになる。 栗本薫がどこまで落ちきろうとも、あるいは死ぬことになろうとも、小説道場は永遠におれの本棚の最前列から消えることのない宝物だ。それだけは変わることはない。
3巻、4巻と同時に感想を書きましたのでそちらへどうぞ |