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栗本薫 1994年


  終わりのないラブソング 6.7.8  う

終わりのないラブソング (6) (角川ルビー文庫)
栗本 薫
角川書店





大長編やおい。
六巻、だらだらとHしまくって、周りがいい顔をしないので、清正たちと疎遠になります。
七巻、ゲイバーで働きます。「このままでいいのかなあ」とかちょっと思います。
八巻、竜一に職場仲間のニューハーフのことを話したら
「お前はそいつに惚れてるんだ。お前はもともとノンケなんだ。
 いいのかい?おれはノンケだってかまわず食っちまうような男なんだぜ」
「いいんです、ぼく……竜一さんみたいな人、好きですから」
「嬉しいこといってくれるじゃないの。
 そうだいいこと思いついた、お前、一緒に住まないか?」
「えー、横須賀にですかあ?」
「男は度胸、なんでもやってみるのさ」
そんなわけで、終わりのないラブソングの連載はぐだぐだでうやむやのままに終わってしまったのでした。

本当にもう、なんなんだろう、このグダグダ展開は。
結局、この作品ってさ、心がぶっ壊れた少年が青年となり社会復帰していこうとするも、なかなかうまくいかない、という過程を、丁寧に描写した作品なのかもしれないけどさ、(いや、結果じゃなくて、狙いとしてはね)ほとんど同じテーマの作品である萩尾望都の『残酷な神が支配する』と比べるとさ、恐ろしいほどクォリティのちがいがはっきりするというか。
『残酷な〜』も明確な結末が描かれないで終わったけどさ、それはちゃんとテーマにつながっていたし、それなりのカタルシスもあった。
結局、亡くなってしまった母との和解がキーになっていたわけだし。
難しかったのは、和解すべき母も乗り越えるべき義父も、すでに死んでいたからこじれたわけでさ。

それに対して二葉ときたらさ、結局、男任せにしてふらふらと流されているだけなんだよね。
家族とも和解する努力をしないで、家族だけが悪いかのように周囲のキャラに語らせて。
助けてくれた周囲の人間にも不義理ばかりをして、後の連絡もせず、そのくせ周りの人間はやたら二葉に優しくてさ。ずるいよね。ずるい。
二葉は努力してないよ、復帰するためのさ。葛藤もしてない。
ただ「おれ本当にホモなのかなあ。この人とずっとつきあっていけるのかなあ」という なんとも乙女チックな悩みを抱えてニートくんしているだけで、もうとにかくずるい。
竜一に再会してからは、本当にもうなんの努力もしてない。
甘ったれすぎ。だからきもい。

でもさあ、まあいいのよ、そのラブラブ具合が読んでて面白ければ。
でもさあ、栗本先生って、ほんっっっっとうに心のそこからラブラブ下手なのね。
多分ね、余裕がないからいけないんだよね。
読者が「こいつらしょーもねーw」と爆笑することを、この作品世界が許してない。

ラブラブなんてさー、他人から見れば笑いものじゃない?
その笑いもの具合がさー、幸せを伝えてくれるわけじゃない?
なのに笑っちゃいけない空気が漂ってるもんだからさあ、素直にこの二人を祝福できないんだよね
ラブラブ中にまで不幸ごっこはやめにしていただけまいか。ふんとにもう。

でさ、なにがいけないかって考えたんだけど、なにもかもって答えは置いておくとして、やっぱ竜一のキャラのいいかげんさっていうかさ。
繰り返し比較するのもなんだけど『残酷な神〜』だと、ジェルミとイアンという二人の主人公が均等な深さを持って描かれ、どちらの気持ちもわかるし、どうすればいいのかわからない、答えがないという閉塞感、それでいて生活をちゃんと送っている人間のしたたかさ、それが壊れる瞬間のもろさ、そういうのがちゃんと描かれているのよね。
実の息子であるイアンの視線をもって、元凶であるグレッグを簡単に否定できないようにしてあるしさ、そのうえで「グレッグもかわいそうな人だった」などと安っぽく同情させない厳しさもある。
とにかくイアンの立ち位置が絶妙に計算されていて、ちゃんと二人の物語になっているわけ。

対して、やっぱり竜一はさ、途中から登場のキャラなわけじゃない?
一話目では想定されていなかったキャラなわけじゃない?
そのせいなのかね、こいつどうでもいいというか、要は強くていい男で二葉を愛していて、それだけで必要条件は満たしているわけでしょう?
昔の男であった武司との違いって、ぶっちゃけツラがいいか悪いか、そのくらいしか見受けられないのよね、僕には。

二巻の段階ではさ、なんとなく文章と雰囲気に流されて、いいカップルのように思えなくもなかったけど、こうして描写がつみ重なるとさ、薄っぺらいんだよね、竜一というキャラが。
物語的にもどうでもいい立ち位置だしさ。
二葉を甘やかすだけで、なにも解決してくれないし。

そんな初期設定のいいかげんさのせいでさ、せっかく二人を再会させても、どうすればいいのかわからなかったわけじゃない?
そのせいで延々と二葉が独り言をいい続けたり、なんとなくセクロスシーンを続けたり、邪魔なのでほかのキャラ出さなくしてみたり、ゲイバーで働かせてみたけど、うまく脇キャラが立たないし、働かせたところでストーリーの進展は無いし、 しょうがないから竜一との仲をちょっと怪しくさせてみようかと企んだけど どうにもうまくいかないし、なんだか人気も翳ってきたし、作品続けていてもどうしようもないし、ま、そろそろやめるべかあ、と最後の一話でいままでの展開ぶった切りで二人は同棲して幸せですめでたしめでたし。

もう、なんなのコレ? 何年もつづけてこのオチはないだろ、ほんとに。
ジャンプ漫画かよ。ドラゴンボールでいうと、半分以上魔人ブウ戦だよ。
カタルシスの無さが半端じゃない。なんでここで終わったの?
意味わからない。悪い意味で。

で、なんとなく終わった雑誌連載を補うために、るいはページを埋めるために
なんとなく書き下ろしで「エターナル」という短編がついてきたわけだが、
これは次の項に譲ってみる。

とにかく雑誌で何年も連載追いつづけてこの結末だったら、ぼくはちょっと頭抱えながら雑誌投げ捨てて夜明けの街に飛び出して「おれに愛をくれよ」と五回くらい連呼しちゃうな。
良かった……連載追ってなくて本当に良かった……






  いとしのリリ− うな∈(゚◎゚)∋

いとしのリリー (角川文庫)
栗本 薫
角川書店





恋愛小説、なんですかね

あらすじ
主人公(♂)の恋人は、親友(♂)の中に芽生えたもう一つの人格(幼女)でした。
だからホモだけどホモじゃないよ、という話。

なんつーか、微妙な評価にならざるを得ないというか。
無駄に長い。
中盤に行われているグダグダが、作品にほとんど生かされていない。
親友の名前が島村ジョーって、009かよ!っていうのも笑い所。
主人公がケンなので、ケンとジョーでガッチャマンなのかもしれない。苦笑い。
二重人格に関する部分も、あまりにご都合主義的で、浅い。
子供だましな二重人格だ。

オチの部分での治療云々も、そんな簡単になおるんならだれも悩まねーよ、とツッコミたい。
栗本先生は医者嫌いであまり医者にいかないせいで、逆に医者に過剰な幻想を抱いているのではないか?
後半の精神科医のぐだぐだな説明は興醒めすることはなはだしい。
あと、これ元々舞台のために考えられた脚本みたいだけど、こんなもん舞台にするなよ。小説でもギリギリだろ。絶対・無理。

と、散々悪口を並べさせていただきましたが。
好きですね、この作品。
プロローグとエピローグの語りだけで、ご飯三杯はいけます。
つうかきもいことにマジで泣けます。
逆に云うと、そこしかいりません。
この情緒過剰こそが栗本薫の真骨頂。
やたらおセンチな大人の男という矛盾した存在こそが、栗本先生の得意技なのですよ。
だから、この作品に関しては、なんつうかそっとしてあげましょうよ。
と虚空に向かって語りかける僕でした。






  伊集院大介の新冒険

伊集院大介の新冒険 (講談社文庫)
栗本 薫
講談社





ミステリー短編集。
『顔のない街』
『事実より奇なり』
『ごく平凡な殺人』
『奇妙な果実』
『盗癖のある女』
『星のない男』
『ピクニック』
所収。

これは、けっこうおすすめ。
普通の人々の間で起きた、ありふれた悲劇に触れていくという、伊集院大介の基本スタンスに忠実な、とても伊集院大介らしい短編集。
新しく助手役として登場した滝沢稔少年は、幼いながらも大介との相性もよく、 彼が助手として成長していく過程もまた面白い。
どの作品も、ちょっと考えさせられる部分があり、栗本薫流の見事な社会派である。

特に最後の作品『ピクニック』がとても好きだ。
どこにでもあるマンションの、どこにでもある二つの家族に漂う、かすかな破滅の臭い。
不確かでありながら、その不穏な空気が少年の心理を通して実によく伝わってくる。
短いのに、最後の数ページでは思わず泣けてしまう。
大介も実にいい。悲しい真実を示すことによって人々を癒すという、大介の本領発揮である。
この作品などに見られる大介の優しさと厳しさは、古今の名探偵に引けをとらないと思う。

ただ、いま冷静にみると。
ちょっと文章がくどい作品もあるし、大介うざいというかきもい部分もあるし、なにより推理物としては破綻しているというか、わかってしまう作品は単純だし、わからない作品は推理できるはずもないものばかり。
ミステリーじゃ、うーん、ないわなあ。

でも、おれはいいと思うぜ、こんな探偵小説があってもさ。
だから、最低でもこのクォリティを維持して欲しかった。心の底から。






  バサラ2.3  う

バサラは一巻のところにシリーズまとめた感想を書いたのでそちらへどうぞ





  好色屋西鶴  う

好色屋西鶴 (ジョイ・ノベルス)
栗本 薫
有楽出版社





時代もの。
『好色一代男』などで知られる井原西鶴を題材にした作品。

面白くなかった。
つまらないとかひどいとかじゃなくて、とにかく純粋に面白くない。
ものすごい量を書き殴り、エロにこだわりまくった井原西鶴に勝手にシンパシーを感じた栗本薫が「こんなだったに違いない! 私ならそうだもの!」といった妄想たくましく、西鶴が女護ヶ島に雲隠れするまでを描いた作品。

長いわりには内容が薄く、やたらと西鶴の「おれは好色屋だ」みたいな、実体のないくどくどしい語りが入るばかりで、エピソードで語るべきところを熱弁だけでごまかすという、栗本薫の悪癖がいよいよ如実に現れてきている。

才覚を発揮するまでなどは、資料をベースにしているのだろう、それなりのエピソードがあるんだが、下巻(第二部)になるともうダメ。
とにかくさっさと女護ヶ島でもどこへでも行けとイライラしてくる。無駄なエロシーンとかいらないから、ホント。薫のエロシーンじゃ抜けないんだから。

新しいことをやろうとしたのかも知れないが、おおむね失敗に終わったとみていいと思う。
実在した偉人たちに自分を重ね合わせるのはホントにやめていただけないだろうか?

……なんかそこまでひどい作品と思ってないのに、妙に辛口になってしまったのは何故?
ずいぶん昔に読んだっきりで、あんなに分厚いのをがんばって読んだのに、ろくにストーリーも思い出せないのがいらついたからかしら?






 さらしなにっき  うな∈(゚◎゚)∋ 

さらしなにっき (ハヤカワ文庫JA)
栗本 薫
早川書房





SF短編集
これ、現在、栗本薫最新のSF短編集で、そんでもって最後のSF短編集なんだろうな。12年前の作品なんだけども。書いて欲しいなあ、SF短編。しみじみ。


★『さらしなにっき』
ある飲み屋で偶然意気投合したおっさん二人。
思い出話に花を咲かせていると、なんと二人とも同じ空き地で遊び、同じ屋敷の少女に片思いしていたことがわかるのだが……
リリカル・ホラー。
これはなかなか良い。ノスタルジックで泣けるし、怖さと切なさが良いバランスで成り立っている。
郷愁の象徴をはらっぱと、憧れていた年上の少女にしたあたりも、ベタで、だからこそ共感を呼んで、うまい。自身で云うとおり、まんま小松左京ノリだけどな。


★『忘れないで forget me not』 これも、SFホラーでちょいリリカル入ってるかな
これ、すごく好きですね。SFらしく話が大きくて、リリカルで、読みやすくて、切なくて。
『12ヶ月』にも収録されていて書いた記憶があるので、飛ばす。


★『峠の茶屋』
ある逃亡者の青年が、峠の茶屋に迷い込むのだが、そこは……
これはまた、小松左京というか、まんま「火の鳥」の影響受けたって感じだな。
だから、良くも悪くも火の鳥です。栗本薫の悪癖がちょっと出てるかな。


★『ウラシマの帰還』
長い星間旅行を終えて、数十年ぶりに地球に帰ってきた宇宙飛行士たち。
しかし出迎えてくれた故郷の人々の態度はどこかおかしくて……

ここまで来ると、もう古い。なんか設定が古い。藤子FのSF短編集風味だな。
要するに、古いなりにけっこういけます。


★『走馬灯』
ある日、空に昔の光景が浮かび上がり……
ショートショートだね。もっと短くても良かったかも。
栗本先生も一冊くらい、ショートショート作品集を書いてくれたら良かったのにな。向いてないんだけどね。


★『最後の夏』
なんで『滅びの風』に入っていないのかわからない作品。余ったんだろうけど。けっこう好きだけど、ストーリーはない。


★『パソコン日記』
栗本薫が手書きからワープロ書きに移行する様子を、虚実を交えて面白おかしく書いたホラーコメディ。
初読のときはとても面白く読んだものだが、今となっては笑えない。怖すぎる。
忘れていたんだが、これを読むと、ワープロ導入のきっかけは舞台のためだったらしい。
ホント、ダメになった原因がここまで舞台に集約されているってのもすごい話だ。
舞台、やらないでくれていたらなあ。
そうしたら原稿はいまも手書きで、ひらがなも少なめで、謎の誤変換もなく、グインもいたずらに巻数を重ねることもなく、ましてもネットで恥ずかしい自作サイトを運営することもなかったであろうに……
おれは舞台が憎い!憎いぞ!

この作品自体は面白いです。

★『隣の宇宙人』
隣に宇宙人がひっこしてきてはちゃめちゃになりました。

完全にコメディ。
もう、くっだらない古臭いしなにひとつ特筆する部分は無いんだけど、なんとなく面白い。
作者が楽しんでいるのがいい。可愛げがある。この可愛げはどこへ消えたのであるか。オホーツクだな。きっとオホーツクに消えたんだ。犯人は板前の源さんにちがいあるまい。クソッ!


合間合間に、わざわざ一作づつ作者の解説というか感想が入っていて、そのはしゃぎ方がうざ面白い。
作品自体はそこそこよくできたSF短編集って感じだが、なんか好きなので高めに評価。
あと、これが事実上最後のSF作品集なので、哀悼をこめてうな印。
こういうSF短編集は何年かに一度でいいから出して欲しかったものだなあ……諦め諦め。






  あずさの元禄繁昌記(中島梓) 

あずさの元禄繁昌記 (中公文庫)
中島 梓
中央公論新社





エッセイ。
栗本薫が、たしか『好色屋西鶴』のために元禄時代の資料を調べたりしてたので、一石二鳥とばかりに元禄時代についてとりとめもなく語ったエッセイ。

作家には資料を集めないとぐだぐだになる人がいる一方で、資料を集めても何の役にも立たないタイプの人もいる。
では栗本薫・中島梓がそのどちらにあたるかというと、どちらでもない。
第三のタイプ、資料を読めば読むほどダメになるタイプなのである。

歴史小説は連想ゲームのようなものだ。
いくつかの史実から、それを貫く一本の筋を連想し、その筋に沿って史実をつなげ歴史を配列しなおす。この長い一本の筋をこそ史観というものだ。
この筋はたゆんでいてはならない。曲がってはならない。切れてもならない。まっすぐ突き進んだ鋭いものでなくてはならない。
チンコ感覚による漢の浪漫ですべて筋を通してしまった司馬史観や、無常観によってすべてを貫いた風太郎史観などは、一貫しているからこそ理屈をこえた説得力を有する。

なにも歴史物にかぎらずともよい。
とにかく資料を調べる場合は、その先にある自分なりの筋を見出さなければ無意味というものだ。それができない人間の場合は資料集めは無為に終わる。

栗本薫などの場合は、もっと悪い。
筋を通すことなく、散漫に散らばった史実を片っ端からひろいあつめて、ひたすらにぐにゃぐにゃと曲がりくねった、たるみきった物語にしてしまう。それでいて言い訳は「でも史実だから。資料にあるから」
こういうタイプは資料を読まないほうがよろしい。妄想だけで書いた方がよろしいのだ。
薫に必要なのは史実を明かす資料などではなく、先人のすぐれた同ジャンル作品だ。それを浴びるように読み、自己流アレンジを加えてパッチワークすればよろしい。そうすれば面白い作品ができる。その点に関してはまさに類稀なる才能の持ち主だったのだから。

なんかエッセイに関する話を大きく逸脱してしまった。
このエッセイはつまり、そうした資料を調べてわかった事柄に対してきゃーきゃー云ったり一席ぶったりしているのだが、江戸風俗に対する理解力が浅薄にとどまっているため、あまり面白い話にはなっていない。印象に残らない。資料の上っ面しか読めていない。

愛というものは本当に不思議なもので、どんな言葉を使おうがどんな態度をとっていようが、なにをどれだけ愛しているかは第三者に伝わってしまうものなのだ。
栗本薫も愛読した池波正太郎、友達だった杉浦日向子などの江戸愛に比べると、このエッセイや『好色屋西鶴』にあらわれる江戸の、なんと浅薄なことか。
(一方で昔の栗本作品の時代劇物がなぜそれなりに読めたかといえば、それはもちろん池波先生たち先人の名作に対する愛があったからだ)

そこまで手ひどく云わなきゃならないようなひどいエッセイでもないのだが、しかし主産物である『好色屋西鶴』が資料をマイナスに使った作品であったため、副産物である本作も低めに評価せざるを得ない。
小林智美先生の表紙絵がエロイのが救いではある。


(09/1/4)







  今岡家の場合は(中島梓) 

今岡家の場合は―私たちの結婚
中島 梓,今岡 清
学習研究社




  新版・小説道場3(中島梓)  うな∈(゚◎゚)∋ 

新版・小説道場〈3〉
中島 梓
光風社出版




やはり名著ではあるのだが、一巻二巻に比べるといささか落ちる。
というのも、さすがの梓もネタ切れ気味なのか、指導の内容がワンパターン化してきて、特に目新しい展開もないからだ。

と、いうか、JUNE及びBLというものがいよいよジャンルとして確立されてきて、道場初期にあったなんでもありの闇鍋状態を抜けだし、投稿作品も需要をつかんだ優等生的な、悪くいえば面白みに欠ける作品が増え、道場主があまりいろいろなことを語る必要がなくなってきたのだ。

JUNEという不確かな、しかし確実に存在する欲求に対して、道場というかたちで一つの道を作ろうとしたのが中島梓の営為だ。
しかし時代はJUNEからやおい、そしてBLへと変わっていき、「やむにやまれぬ少女たちの奇妙な欲求がなぜか性的倒錯となって作品にあらわれる」というJUNEの時代ではなくなってきていた。

むろん、その中でも何人か気を吐く新門弟はいたし(二巻の項で書いたなかには三巻以降の門弟もいる)BLというジャンルを悪いとは思わないが、男の自分にしてみれば残念な変遷だった。
性別を入れ替えただけのシンデレラストーリーや、間違ったホモポルノに走ってしまったJUNEにおいて、中島梓の居場所はもうなかったのかもしれない。

もっとも、当の栗本薫自身がものすごく間違ったホモポルノ、それも読者の需要をまったくつかんでいない方向へと突き進んでしまったのだから、どうしようもないが。

やおいとは、BLとはなんなのか。
それを語る人間は多かったが、語りきれた人間はいまだにいない。
自分の捉えかたも自分なりのもので、他の人から見れば身勝手な自分ルールにしか過ぎないと思う。
しかし、良きにつけ悪しきにつけ、八十年代初頭から九十年代のなかばまでに、JUNE・やおいというものがどんどん変質していったことだけは確かだ。
小説道場は、その変遷を直に感じられる資料でもある。









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