長編やおい。全四巻。 とある小劇団の脚本家(♂)が看板役者である座長(♂)に淡い恋心を抱いていたんですが、ある日、座長のもとにインテリヤクザが訪れてきました。 実は座長はインテリヤクザのペットをやっていて、開発し尽くされていたのです。 座長が消えるのを防ぐため、なんだかよくわからない顛末がいろいろあって、二人はずーーーっとセクロスをしまくりました。 その結果、なんだかヤクザさんとも和解して、刺したり刺されたりして、なんだかいろいろ良くなりました。おわり。 これ、ひどいね。ひどいよ。 よくある一束いくらのやすっぽーーーーいエロだけが売りのBLと同レベル。 栗本先生の「インテリヤクザ萌え」とか「開発済み萌え」とか「脚本家と看板役者カップル萌え」とか「三日三晩やりまくり萌え」とか、そういうリビドーだけをこねくり回して固めるテンプルしたらできたようなお話で、もう見所とか特にないです。ある意味では全編見所です。 タイトルもひどいしさ。なに『レクイエム・イン・ブルー』って。やすっ、やっす〜。 レクイエムという単語を知ったばっかの中学生のようなセンス。たまらない。 各巻のサブタイトルも『蒼の断章』『銀の序章』『黒の間奏』『紅の終章』とふるっている。ふるいまくっている。 中高生が描いたとしか思えない。たまらない。 でも、読んでいる間、力のない笑いが出つづけるので、嫌いじゃないです。 「栗本先生ってアッホやなあ」と思いながら読んでた。素敵! ある意味、これはファンにとって試金石だったんじゃないかな。 商業でもこれだけだらしのない作品を出す栗本先生についてこれるかどうかっていう、挑戦状だったのかもしれないね。 だからみんな読むといいよ。そして頭痛を起こすといいさ。
長編ホラー。 恋人を殺してしまって死体を捨てに山に行ったら道に迷って気がついたらへんな町に迷い込んでいて云々かんぬん。 ベタだ。わかりやすい。ホラーを書こうとして書いたホラーだな。 いいところも悪いところもない。 ああ、ホラーってこんなんだよね、という感じ。 まあ、電車の幽霊とかパーキングエリアの幽霊とかは、いいっちゃいいかな。 でも雰囲気だけで一本かかれてもねえ。つまんなくはないんだけどさ。 うーん、おれ、ホラー好きじゃないからなあ。ことに、幽霊ネタはちっとも面白くない人だすから。 普通の作品です。普通の。
大正浪漫シリーズ第三弾。 あらすじ 名家、大導寺一族の中でも、もっとも権力をもつ老人、大導寺竜介。 化け物とも称されるこの巨魁にも、青春時代があったのであった。 ごめん、そこそこ面白かったような記憶があるんだけど、驚くほど内容を覚えていない。 ぺらぺらとめくってみても、全然覚えていない。 じゃあ読み返せよ、という話なのかもしれないが、敢えて読み返すほど面白い話でもないと思う。 じゃあこの感想パスか? という話だが、まあいいではないか。こんな感じで。 良くもない、悪くもない。そんな作品。
長編ミステリー? つうか探偵小説? 上・下巻 あらすじ 天狼星事件の後、ミュージカル役者を目指し上京してきた竜崎晶。 とあるオーディション会場で奇妙な事件の噂を聞く。 ビッグ・アップル・ヴァンパイア――役者志望の人間を殺し、死体から血を抜くという猟奇殺人者である。 ニューヨークに端を発した事件は東京に舞台を移し続いているのだという。 奇妙な事件に心を悩ませつつも、晶はついに勝ち取った大舞台に精力を傾けていく。 しかし事件の魔手はついに晶の周囲にも及び…… え? また天狼星やるの? というのが率直な第一印象だった。 そしてミステリーかと思って読んでいたら、ほとんどが作中舞台の上演で、あまり舞台映えしそうでもない題材の舞台「炎のポセイドニア」の描写がほとんどである。 は〜試みとしては面白いかもしれないけど、成功か失敗かで言えばもにゃもにゃであるかと思われますよ、と。 舞台にのめりこんでいく晶の心情は、なかなか良く書けてはいた。と思う。 けど、ミステリーで釣っておいて、ほとんど解決しないまま、舞台の話ばっかりして「続く」というのは肩すかすかすかしであって、どうかと思った。 しかし、晶は青年になったら途端に魅力がなくなったことよ。 「こう見えて男らしいんだぜ」というアピールが、妙に鬱陶しいもんでなあ。 まあ、この後の魅力の無くなり方から比べると、この作品の時点ではずいぶんとマシなんだけどね。
緑の戦士はシリーズでまとめてしまったので、そちらへどうぞ
小説道場、いよいよ最終巻。 この巻の道場主は、はじめからテンションが低めだ。 いつものように添削をこなしてはいるが、いい作品が送られてきたときの反応も薄く、云ってみれば、道場主が一読者としての楽しみをまったく捨てた状態で批評してしまっているのだ。 小説道場の優れた点は、指導でありながら、なによりも道場主自体が最初の読者であるという点だった。 つまらない作品には「ここをよくすれば」とアドバイスし、心根の良くない小説には眉をひそめ、素晴らしい作品にはまず嬌声をあげていた。 あくまでもJUNE作品が好きで好きでたまらない、一読者代表としての道場主でもあったのだ。 それが、この巻ではまず門番(編集者)と自分の作品評のちがいに悩み、読者の受けと自分の評の違いに悩み、自分好みでない方向へ邁進する高弟たちに悩んでいる。 一人の読者として投稿作品を楽しんでいる姿は、まったくといっていいほど見受けられない。 そして弱音を吐きはじめ、ついには道場をたたむことを決意する。 不思議なものというか、ある意味梓らしいというか、たたむことを決意した瞬間に、道場は別の輝きを見せだした。 気がつけば10年にも及んでいた連載を閉じると決めた瞬間に、梓は寂寞と悲壮感をたたえた、云ってみれば悲劇のヒロイン的雰囲気を道場に溢れださせた。 去りゆく老兵としての梓の遠吠えは、実に昔年の輝きを取りもどしていた。梓に足りなかったのは、結局こういったロールプレイであったのかもしれない。 中島梓・栗本薫というのは結局、文章界の清水ミチコのようなものだ。 どれだけ達者でも、与えられる役割、物真似する対象がなくては輝くことが出来ない。 最終回前後、己の役割を定め、酔いしれた梓の文章には、たしかに昔年の輝きが戻っていた。 そして道場をやめてより二年、この最終巻を出版するにあたって足りない枚数を補うために書かれた書下ろし『新・やおいゲリラ宣言』 これはもう、笑うしかないものになっている。 道場をやめてより二年の感慨と、その間にいよいよ発展をとげた(ホモだけにハッテン)やおい・BL市場の分析と、そこにある己の嗜好との差異を語っているのだが、この結論が実にすごいというか、ひどい(笑) 梓にとってヤオイとは子供と大人の権力闘争、パワーゲームであり、であるからにはSM強姦でなくてはならぬ、というのがその結論だ。 このよくわからない思考回路をじっくりと知りたい方は、もう本書を読めとしかいいようがない。 初読のときはけっこう真に受けて考えてしまっていたが、なに、なんてことはない、要するに梓はエロの嗜好が非常におっさん的であったというだけなのだ。 薫のエロにもっとも近いものをあげるのなら、それはんといってもクリムゾンだろう。 クリムゾンというのを知らない人のために説明すると、男性向けアダルト同人の雄で、とにかくミーハーで書くのが速い。 DQ・FF・ジャンプ漫画をベースに多彩なジャンルを手がけ、ジャンプ漫画で人気の新キャラが出たら、その翌月にはもうそのキャラのエロ同人を出版しているくらいに、とにかく書くのが速い。 そしてその内容はというと、ほぼ同じストーリーほぼ同じコマ割ほぼ同じ構図で、ただキャラが違うだけというものだ。ちなみにそのストーリーというのは 敵に捕まる→拷問レイプされる→悔しい……→でも感じちゃう……→ビクンビクン 実にこれだけで構成されている。 そのワンパターン具合から男性向け同人ではクリムゾン(笑)という空気が漂っているが、しかし最大手の一つでありつづけているのは事実だ。 ちなみに作者は女性らしい。 薫のエロスの目覚めとして何度も語られているので、横山光輝の『伊賀の影丸』で、少年忍者が敵に捕まって拷問されるシーンというのがある。 必死に耐える少年の健気さもさることながら、助けにきた兄貴分たちが「いま飛び出しては奴らの思う壺だ。耐えるんだ」と震えているシーンが最高にエロイらしい。 いまとなってはもうクリムゾンにしか見えない。 じゃあなんでクリムゾンは受けて薫のSMゴーカンは受けないのかというと……さあなぜなんでしょうねw 文章の劣化のせいというのはもちろんあるが、しかしクリムゾンは男性向けで薫は女性向ヤオイという、そこがいけないのかもしれない。 じゃあ薫の男女エロがエロいのかというと、そんなこともまったくない。 なんでかということをしばし考えてしまったが、なんのことはない、薫の書く女性キャラは絶対に拷問になんか耐えない。エロ拷問を受けたら二秒でセックスの虜になってしまう。 耐える姿が最高に萌えると思っている当人が、女にはまったく耐えさせないのだ。それじゃあエロイはずもないし、需要があるはずも無い。 なにやら話がずいぶんずれてしまった。 ともあれ、この『新・やおいゲリラ宣言』を見てわかることは、梓が道場をやめてからの二年で、ずいぶんと文章的にも劣化したということだ。 一文は無駄に長くなり、ひらがなの配分はバランスを欠き、読んでいるものといえばBL漫画とジャンプだけ。 それまでにも見え隠れしていたダメな部分が、この二年でずいぶんと悪化したのがはっきりと察せられる。切ない。 しかしそう云った切なさも含めて、実に小説道場の最終巻にふさわしい内容ではあった。 小説指導本としてはもはやなんの役にも立たないが、薫を知るデータベースとしては外すことの出来ない一品。 それにしても、おれは94年の夏から薫にはまり、そこから一年は薫狂いと云ってもいいほど信奉し、道場に投稿することを夢見ていたものだったが、その頃にはすでに道場が終わってしまっていたとは、考えてもみれば面白い話だ。 どうも自分は、おわりかけのものにはまる傾向があって、よくない。 (2008/1/3) |