全巻まとめて書いたのでそちらへどうぞ
伊集院大介シリーズ。長編探偵小説。 あらすじ。 ゾディアックカードを模した奇妙な事件が起きて、それが死んだはずのシリウスの仕業なんじゃないかという噂があったり、結局関係なかったり、意味もなくシリウスがよみがえったり、最後ほにゃらららな結末になったり、とにかくアレなストーリー。 正直、題材という、初期設定の事件では「む、現代的で面白そう」と思ったんだが、なんか話が進めば進むほど「なんだかなあ」な感じで、一言でいえば「この程度の話に六冊もかけるんじゃありません」ということになる。 大介がなあ、空回りだしなあ。 シリウスもなあ、なんのために復活したんだかなあ。 犯人もなあ、なんだろうなあ、あのしょぼさは。 どうも、なにがしたかったのか、よくわからないです。 こう云っちゃ悪いですが、この作品のせいで、伊集院大介シリーズは死んだんじゃないかな。 せっかく天狼星が終わったのに、まただらだらやることなかったのに。 作品の出来云々よりも、そのことが悔やまれる。だから評価厳しめで。 いやまあ、作品自体も普通につまらないんですけどね。
評論本。 『コミュニケーション不全症候群』の続編にあたるような本で、やおい文化や拒食症などを中心に、現代の若者たちの心の闇を鋭くえぐる。 ……はずなのですが。 『』コミュニケーション不全症候群』でもそうだけど、中島梓の評論本の魅力というのは、感情ありきではじまり、理論と事実を並べ立て、そこから推論を広げたのちに、また感情に任せた結論に持っていくという、ある意味評論にあるまじき構成の部分にある。 ここで肝心なのは、バランスである。 理屈任せの作品では面白みがないし、独自性が出ない。 かといって、感情だけに任せていたのでは、もちろん評論になんかなりようはずがない。 『コミュニケーション不全症候群』『我が心のフラッシュマン』あたりは、その辺のバランスというものが実に絶妙にできていて、評論本としても単純な読み物としても面白いという、稀有な作品に仕上がったのだ。 ひるがえって本書ですが。 ダメです、ダメダメ。バランス崩壊。感情任せに過ぎる。 文章に勢いはあるのだが、饒舌に頼っているだけなので、冷静な思考ではちょっと受け入れがたい論理の在り方だ。 後半なんて、ほとんど根拠レスな思い込みの妄想につぐ妄想をベースに分析しており、無責任極まりない。これではファンしか納得させることができない。 思えばこの理論と感情のバランスというのは栗本・中島作品全般の要といえる部分で、理論がちゃんとしているから、一見さんの読者でもちゃんと納得のいく物語ができたし、感情がちゃんと表されているから、共感できる人間の心に響く名作ができる。 とにかく、この本に関しては資料もデータも分析もなにもかも足りない。 思い込みだけがあふれかえっている。もう少しなんとかして欲しかった。 そもそもタイトルが良くない。 『コミュニケーション不全症候群』 「え? コミュニケーション不全なのが病気なの? マジで?」 気になる。ひきこまれる。 『我が心のフラッシュマン』 「え? 特撮で評論本? んなバカな」 気になる。手にとりたくなる。 『タナトスの子供たち』 「ハイハイ、タナトスって云ってみたかったのね」 中学生のようだ。スルーしたくなる。内容が漠然としすぎだし。 タイトルにはもっと気を使っていただきたい。 それでも、この畳みかける根拠レス理論の流れの渦がたまらない、と思ってしまう自分もいるわけで。 姉さん、東京は怖いところです。 |