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ぼくらのお茶会訪問記


 この文章は、二〇〇九年六月十一日に行われた『グインサーガ 炎の群像』上映会に行った時の感想です。
 個人的な感想でありそれ以上でも以下でもないのだが、当時ネットなどで栗本薫関連スレッドで話題になってしまい、内情を暴露したスネークのように扱われてしまったため、いまだにこの文章には忸怩たるものがあるのだが、しかし評判がよく、追悼文と対になっている部分も多いため、公開している。


イベントの主旨 

 このイベントの趣旨を説明すると、栗本薫(中島梓)がグインサーガ五十巻達成記念という名目で九五年末に行った『ミュージカル グインサーガ 炎の群像』のVTRを、有料で上映しようというイベントだ。料金は二千五百円(ファン倶楽部の人は千五百円)。
 上映後には中島梓を交えたお茶会が開かれる。ある意味こちらの方がメインとも云える。会場は「天狼プロダクション」、要するに、中島梓の事務所だ。
 事務所で上映会! なんとも不思議な響きだ。事務所って、そんなに広いものか? 小説家の事務所だろう? いくらある程度手広くやっているからといって、そんなに広いとも思えないんだが。
 このイベントは、何人くらいの集客を見込んでいるのだろう。あまり大々的にこのイベントを宣伝しているわけではないとはいえ、一応は出すたびに数万部売れる小説のミュージカルだぞ? いくらVTRとはいえ、そんなにだれも見にこない予定なのか? ……でもまあ、見にこないか。となんとなく納得する。
 そこで自分なりに今回のイベント参加者数を予想してみた。漠然と会場の広さは十畳から十二畳と予想する。となると、多くて五十人。少なくて二十人。間をとって三十~三十五人というところか。
 その人数ってプロの作家としてどうなんだろうなあ。でもまあ、予想だからな、実際はどうなのか、行ってみないとわかるまいて。


会場入り 

 
 上映会の開始は十三時。会場は三十分前とのこと。
 こういうものの常として、あまり早く行き過ぎると時間をもてあまし、ギリギリだとなぜか悪い気がするので、だいたい十五分前に着くようにする。さらに初めていく場所なので迷う時間も考慮して、二十五分前に着くようにすればよいか。もし迷わずに早く着きすぎたら、コンビニとかで時間を潰せばいい。でもまあ、おれのことだ。ちゃんと迷うことだろう。おれは方向音痴なうえに地図を読むのが下手なのだ。
 そんなわけで、現地には二十五分前に着くようにする。場所は田町なので、我が家からは電車で一時間ちょっとだ。
 十一時半発の電車に乗り、予定通りに十二時半過ぎに現地入り。
 さらに予定通りに道に迷う。
 地図というものはどうにも縮尺がわからないで困る。思ったより近かったり遠かったり、いつになっても俺を惑わせてくれる。困ったエンジェルさ。
 事務所にでかい看板が出ているわけもなし、どういうビルなのかわからないので、この辺かなと思ったビルのテナントを片っ端から確認していく。勝手なきめつけで、普通のマンションとかなんじゃねえの?とか思って、ライオンズマンションとかまでチェックするが、さすがに見栄坊の栗本先生、そんなことはなかった。探しまわったあげく、素通りしていたそこそこ立派なビルの地下に、さりげなくひっそりと天狼プロダクションは存在していた。
 到着したのは五十七分。開場三分前だった。さすがおれ。まったくもって予想通りの時間に到着だ。  インターフォンに到着を告げ、エレベーターを降りると、そこは狭い廊下。いや、狭いといっては失礼か。いたって普通の廊下。人一人が普通に通れる。一般家庭としてはいたって普通だ。一般家庭としては。
 どうでもいいが、インターフォンに告げる自分の声で、どうやら今日の自分は「喋れない方の自分」であるらしいことに気づく。これは困った。が、まあそういう日なんだから仕方あるまい。今日は無理せず無難に過ごそう、と思う。
 入ってすぐに、受付(つうか会議机に事務の人が座ってただけだが)があって、ファンクラブの人かどうか聞かれる。「ちがいます」と答え、一般料金の二千五百円を支払う。
 事務の人の手元に名簿みたいなのがあったので、ファンクラブだと云ったらそれと照会するつもりだったのかな?しかし、普通のペラ一枚だったが、ファンクラブの会員って何人ぐらいなんじゃらほい?
 疑問に思っていると
「お茶会には参加されますか」
「あ、えーと、じゃあ参加します」
 ハナからそのつもりのくせに、そらぞらしく考えたふりしながら答えてみる。なんか手元の紙にメモってる。参加人数の確認かな?お茶とお菓子の数を合わせるために、ちゃんと人数かぞえているんだろう。まあ、食器も足りなくなったら困るだろうしね。(実際は足りなくて困るような食器は使われていませんでしたが)

 さて、廊下を二、三歩いくと、とりあえず着物姿の初老の女性と遭遇する。
 つうか中島梓じゃねえかよ。いきなり第一種接近遭遇かよ。
「こんにちわ」みたいなことを云われ「どうも」とか適当に返す。
 しかし、土禁だというが、靴をどうすればいいのかわからない。説明もない。一応ビニール袋もってたからそれに入れたが、なんともアナウンスのないイベントだな。
 そんなわけで上映会場にはいる。
 せまっ。
 八畳くらいか? 十畳は……あるかなあ。微妙。
 すでにたいていの人は会場入りしているようだ。人数はちょうど会場が埋まるくらい。だいたい三十人弱か。悲しいけど、これって予定通りなのよね。
 意外なことに、男性も自分以外に五人くらいいた。しかも一人は若い。若いというより、子供だ。小学生じゃねえかよ! どうやら親子連れのようだ。なぜか反射的に「栗本薫関連のイベントに子供連れてくるなよー」と思うが、まあ自由だ。しかし、こんな小さい子が見て、なんか楽しいのかねえ、と思うが、この子、あとでわかったのだがどうやら十四歳であったらしい。おさ、おさなっ!十四歳にしてはおさなっ。中高時代によく遊んでいた友人の弟(当時たしか十歳くらい)にそっくりだったから、十一歳くらいに見えたよ。大丈夫か?きみ。こんなもん読んでないで、飯食えよ?
 と心の中で他人の家庭にどうでもいい心配をしながら、席に着く。いや、着けない。
 席がない。
 どうやら三十人に満たないこの人数で、すでに予定人数をオーバーしていたらしい。パイプ椅子が足りずに、その辺の部屋から適当な椅子をもってくる梓たち。結局、おれは部屋のうしろにあったピアノの椅子に座らされる。やたら椅子の背が高いのがどうかと思うが、まあおれも背が高いほうなので問題はない。なんにしろ、一番うしろの席に座れたのは幸いだった。映像作品を見ている間、落ち着きがなく身体を動かす自分としては、自由に背伸びできる後ろは望ましい。
 すぐ左には、一昔前の高級機種といったおもむきのビデオデッキが、プロジェクターにつながれ鎮座ましている。普通にビデオテープなんだな。いまどき、テープをDVDに落とすのなんて家庭でも簡単なんだから、上映会なんてするならだれかDVDにすりゃいいのに、と思う。まさか事務所にDVDレコーダーがないとか? ないのかもしれんなあ。
 ぼんやりと客を見回す。やっぱりある程度歳のいった方が多いか。四十歳前後の方が多いようだ。当然、圧倒的に女性が多い。ほんのりと腐女子のにおいが漂ってはいるが、いずれもハードコアな感じはしない。要するに、普通のその辺にいる、本読んでそうなおばさんだ。自分が幼いころの母を思い出させる。ちょっとメンヘルというかメルヘンというか、ぶりっ子はいっているというか、過剰に楚々とした格好の人がちらほらいるのが気にかかるが、(童謡とか童話作家みたいな感じ? 具体的に云うと谷山浩子とか)まあ、ボク自体はそういう人や格好は嫌いではない、むしろ好ましい方向なので、まったく問題はない。
 そうこうしていると栗本先生が部屋を出て、また入ってくる。そのうしろから、アルフィーの高見沢さんのモノマネしたら失敗した、みたいなやたらめったらガリガリで髪の長いおじさんが歩いてくる。
 なんだ、このいかにも関係者ですオーラを漂わせている人は、と思っていたら、梓が「今岡さん」と呼ぶ。なるほど、これが今岡・ダンナ・清か。長年、お堅い編集長をゃっていたとは思えぬほどにフリーダムだな。しかしまあ、本当にやせている。栗本薫に肉を吸い取られているとしか思えぬほどに。
 その栗本薫だが、実物を見て最初に思ったことは、意外にも「なるほど、思ったよりは太ってないな」であった。
 栗本先生が「私は太っていない。テレビ映り、写真映りが悪いだけ」というのは、デビューして間もなくから現在にいたるまで、年柄年中のたまっていたことだが、どうやら実際にそうであったらしい。とても意外だ。
 が、思ったより太っていないだけで、デブではないと云ってしまったら、閻魔様に舌を抜かれてしまうであろう。田舎の売れない旅館の女将とか、ベテラン女中とか、あるいは常連しか来ない廃れたバーのママさんとか、そんな風情わかってもらえるだろうか。べつにわかってもらう必要もないが。
 でもまあ、いいのではないか? そもそも五十をいくつも越えれば、ほとんどのおばさんは太るものだ。年齢を考えれば、ある程度は納得のいく太り方だろう。私人ならば口出しするほどじゃない。
 ただ、これで太っていないと主張するのは、やっぱ無理はあるよな、うん。

「栗本薫こと中島梓です。今日はお集まり云々あと五分ほどで上映云々」
 普通の挨拶がはじまる。
「新しい来客があるとこのランプが光ってブザーが鳴るので、手入れみたいな感じになりますけど大丈夫ですよ(笑)」
 なぜかみんな爆笑する。取り残されるおれ。しまった、ここ爆笑ポイントだったか。乗り遅れた。そういえば、おれは昔からクラスの爆笑ポイントがわからない男だった。ひねくれているとかそういうのではなく、素でわからないのだ。
「スクリーンが真ん中ではなく端にあるので席によっては見にくいかも」
いや、ホント端だとみにくそうだな。おれは真ん中だからいいけど。しかし、なんであんな場所にスクリーンが?
「大工さんに伝え間違ってあんな場所になったそうで」
 ダサッ!
「設置しなおすとお金かかるのであのままですが」
 セコッ!
 そんなことを思っていると、清が隣のデッキとアンプをちゃっちゃっといじり、照明を消して上映がはじまった。ちなみにダンナ清は、その後どこへ行ったのか、以降、姿を見せることはなかった。

『炎の群像』 鑑賞 

 
で、初めて栗本薫の舞台を見たわけだが、その感想をつらつらと書いてみる。感想見たところではるか昔のだし、見る機会があるわけでもなし、どうなるものでもないと思うが。
 詳しい内容は、相当にうろ覚えであるので、間違いまくっている可能性もあるが、べつにそれでだれが不幸になるわけでもないので気にしないで欲しい。よしんば不幸になったとしても、それは私のせいでない。あなたの人生が間違っていた、それだけのことだ。

 上映がはじまってまず思ったことは
「映像きたなっ! 音ぼろっ!」であった。
 そりゃ十年も前のテープですから劣化もしようものですが、だからさっさとDVD化しろとあれほど……
 まあ、実際のところ、おれはあんまり画質とかにこだわるタイプではないので、別にいいっちゃいいのですが、オフィシャルのイベントでこういうことになるとは、父さん、ちょっと想像がつかなかったかも知れないな!
 で、はじまるなり暗い画面に、ぼんやりと濃いい人の顔がうつり、一曲うたいあげる。べつに声が似ているわけでもないのに美輪明宏を思い出した。要するにそういう雰囲気だ。
 歌が終わると、急に設定の舞台説明がはじまる。
「はるかな遠い昔、中原の古代王国パロに新興国家モンゴールの軍勢が云々」
 わかんねーよ。
 いや、おれは原作読んでるからいいけどさ、そんな設定まくしたてられてもわかんねーよ。でもまあ、いいのか。どうせ原作読まないで見に来る人なんていないんだろうし。
(あとで判明するが、この舞台からグインにはまった人も若干名はいたようだ)
 つうか、グインってはるかな昔の話だったのか? 超未来だか超過去だかわからない、そもそも地球かもわからない、そんな時代・世界じゃなかったか?
 でも原作者がはるかな昔とはっきり云ってしまったんだから、しょうがないか。
 よし、諦めよう。

 そんなわけで、セットは城っぽいもの。クリスタルパレスなんだろう。
 うん、まあ、それなりに金かけてがんばって作っているのはわかるし、舞台のセットはそんなもんだってわかってはいるけどさ。そうか、これが中原の文化の粋。世界でもっとも優美な麗しの都クリスタル、その中心のクリスタルパレスか。
 そうかそうか、だったらいいんだ、だったら。
 父さん、みんながここをクリスタルパレスだと思えるなら、それでいいんだ……
 で、クリスタルパレスに押し入ってくるモンゴール軍。
 入ってくるなり
「♪おれたち非道のモンゴール軍だぜー
 やばいぜやばいぜやばくて死ぬぜー」(意訳)
 と歌って踊る。
『カンフーハッスル』の斧頭会って、なんか可愛くて好きだなあ、と思い出す。

 感想の途中ですまないが、この書き方だとあらすじ全部やらなきゃいけなくて、非常に異常に長くなりそうだ。よって、書き方を項目べつに変更する。決して時間を置いたらどんどん記憶が薄れていったわけではない。

 炎の群像・キャラと役者に関して  

 
ナリス
 元気だ。
 低く朗々とした舞台発声で「私はクリスタル公アルド・ナリス!」
 元気だ。儚さの欠片もない。八十歳くらいまで生きそうだ。
 スタイルもいいっちゃいいが、細くはなく、しっかりかっきり役者体型であって、ナリス様の細く折れそうな腰、なんてものは連想されるはずもなく。
 それにしてもこの声、どことなくなにかを思い出すような……と思ったが、じっと考えて、最後のほうでふとわかった。
 ウッチャンだ。内村光良だ!
 うっちゃんがギャグでたまにやる、あの腹式発声になんとなく似ているんだ。そう思うと外見もちょっとうっちゃんに似ている気がする。
 あ、でも、ほら、うっちゃんってキアヌ・リーブスに似ていることもあるしさ(コンスタンティンのジャケットとか)きっとうっちゃん顔って受け顔なんだよ。ジェッキー・チェンにも似てるけどさ。
 そうかー、うっちゃんがナリス様かー。としみじみ思う。
 まあ、ロングの黒髪は綺麗っちゃ綺麗だが、どこからどうみてもカツラです。本当にありがとうございました。
 そして白い服に銀の鎧。銀色の鎧。ぺこぺこした鎧。なんか金属のそれではなく、ビニールの光沢をたたえた鎧。生舞台ならともかく、ビデオでのアップだと、あからさまにてかてかぺらぺらの鎧。
 なまじ光っているだけに、悲しみが伝わってくる。
 そういえば、頭に環っかをしてなかったな。なんでだ?
 とにかく元気そうでなによりでした。

リンダ
 わかる。わかるよ、気持ちはわかる。
 気持ちがわかるだけにつらい。
 ベストを尽くしたんだと思うよ、ベストを。
 でも辛い。その気持ちだけは、嘘じゃないから……

レムス
 むかつく。異常にむかつく。
 原作でのむかつく部分だけをクローズアップさせたような、むしろほめてやりたいほどのむかつきぶり。そこに立っているだけで不快。ただただ素直に殴りたい。
 あとリンダとこれっぽっちも似てねえ。しかもそれを劇中でネタにされていて、余計にむかつく。

イシュトヴァーン

 鷲鼻。超鷲鼻。あと今回の脚本的に、存在意義があまりよくわからない。
 そりゃ本編の主役の一人だから出さないわけにはいかないだろうが、本編の大主役も出ていないんだし、無理に出すこともなかったんじゃないのか?
 で、無駄に力んでいる。本編初期での軽さもシニカルさも欠片もなく、やたらと叫んで力んで、なんつーかイシュト必死だな(藁 みたいな感じだった。あとどこも「紅の傭兵」じゃなかった。
 本当に、なんのためにいたのだろう。

ヴァレリウス
 どうやらこの舞台で一番株をあげたキャラのようで、脚本上の不都合な部分をほとんど一人で背負わされたトリックスターだった。そのときの気まぐれでギャグキャラになったりシリアスキャラになったり、素人がうっかりやってしまう「物語の都合でその場その場でキャラがちがう人」そのものであった。
 しかし、このセオリー、自分なりに栗本先生から学んだつもりでいたのだが、ぼくはなにかを間違っていたのだろうか。
 まあ、単品で見るなら、たしかに一番活躍してるし、陰気なひょうきん者という、この頃のヴァレリウスの基本キャラ自体は、やっぱり好きではある。しかし都合が良いキャラだ。
 キャラと役者の外見的にも、わりと合っていた。魔導師だから黒いローブ着てればそれで良いのも幸いした。

アムネリス
 宝塚からなにも足さない、なにも引かない、そんなキャラ。
 まあ、アムネリス自体が宝塚なキャラだから、それで問題はない。
 しかし、鎧がテカテカしていた。ビニールの光沢で。しかも赤。
 ナリスもそうだったけど、これってなにかを連想させるなー、としばらく考えて、わかった。特撮物の敵の女幹部だ。あれそのものだ。ナリスも宇宙刑事とかに見えなくもない。
 いやー、昔「わが心のフラッシュマン」にて
「あんなペカペカな連中にドラマなど持てるか」
 みたいなことを云っていた栗本先生が、まさかペカペカなキャラを生み出していたとはなあ。十一年目にして知る真実。父さん、あの頃はそんなの想像もつかなかったよ。

リギア
 宝塚2。
 それ以外になにを云えというのか。
 まあ、おれの持つリギアのイメージとはちがったが、これは普通にアリの範疇かと。

カースロン
 カースロンさん!
 カースロンさん!
 カースロンさん!
 ある意味、一番良かった。外見もあってたし。それにモンゴール軍の鎧は、黒いからテカテカ感が低くてわりとマトモに見えるしな。
 なんたってバロ奪回編はカースロンさんの晴れの舞台ですからね。まあ、そこしか出番がないとも云うが。
 懐かしかった。

アストリアス
 うざっ。
 そして死んだ!
 鉄仮面は!?
 鉄仮面かぶせられて幽閉されて、そのまま九十巻以上にも渡り放置されているアストリアス君はどうしたのですか?
 これは原作でも死んだことにしてくれという、栗本先生の魂の叫びなのですか?
(追記・その後、完全にみんなが忘れ去った頃に原作で再登場していたが、じゃあますますこの舞台での死はなんだったんだろう……)

ルナン
 出てこないと思ってたら、唐突に出てきた。
 そんな唐突に出てこられても困る。
 そして特に役目はなかった。

マリウス
 だれこのスカートはいた大槻ケンヂ、あるいは痩せた葉加瀬太郎。

グイン
 グインサーガなのに、グインのグの字も出てこねえ。
 待ってたのに! ずっと登場待ってたのに!

『炎の群像』総評  

 
曲について
 はじめに断っておくが、おれは音楽に疎いうえに、ミュージカルというものの意味がよくわからない。なんで劇の途中で歌ったり踊ったりしなきゃならんのだ?と思う類の人間である。
 そんなぼくから見た楽曲の印象だが……
 うーん、何枚かグインや魔界水滸伝のサントラもってるから、そんなことだろうとは思っていたが……
 歌詞に意味がありすぎる。意味がありすぎるというのかな、歌詞がセリフになっていすぎている。そんだけセリフそのままなら、それ歌わないでセリフでもいいじゃん、とか思ってしまう。
 メロディーの方は、調子ハズレでもなければ印象的なフレーズがあるわけでもなく、現にいまとなっては、どの曲もほとんど思い出せない。
 足を引っ張っている、とは云わないが、曲が舞台全体のクォリティを上げているとは、とうてい云えないかと。
 好きでもない、嫌いでもない、関心を寄せない楽曲だった。まあ、一応フォローしておくと、おれは滅多に音楽に関心を寄せたりはしないんだが。

全体の出来について
 ストーリーは、原作の一巻から十六巻までを、グインの出てくる場面を抜いてまとめたもの。
 グインの出てくる場面を抜いて、とは簡単に云ったものの、なにせグインサーガですから、グインの関係する場面が半数を越える。それをどうにかしてなんとかしたわけですが。
 ぱっと見、たしかに思ったよりまとまってはいた。もっとどうしようもなくなるかと思っていたが、案外まとまってはいた。
 んが。
 中途半端なはしょり方だ、という気もする。原作を知らない人間にはストーリーがわかりづらく、知っている人間からすれば、そんな無理にまとめないでも、という感じだ。
 無理矢理というか「舞台だから入れました」みたいなお笑いの数々も、なんでグインでそんなことしなくちゃいかんのか、と思ってしまう。
 全体的には、宝塚を予想していたのだが、意外にも劇団四季の方向だった。
(注・おれは四季も宝塚も見たことなんぞない)
 そういったもろもろの要素が、だ。このミュージカルに置いて、グインサーガのどこの部分を見せようとしたのかを曖昧にしてしまっている。
 客観的に、知らない人間からの視点だとして、このストーリーは、隣国の支配下に置かれたある王国が、自らの力で自治を取りもどす過程を描いた物語だ。
 と、なれば重要なのは、支配下あってなお屈せぬ人間の心と、圧倒的不利をはねのける戦術となるはずだ。
 あるいは、その王国を強大な力で取り戻す、英雄の物語だ。
 民衆か、英雄か、そのどちらかに焦点をシフトさせねば、なにがしたかったのか、わからなくなってしまう。
 原作は、いいのだ。原作での、この黒竜戦役は、グイン、リンダ、イシュトヴァーンという人間を一堂に介させ、ナリスを英雄として立たせるための舞台であり、のちに広がりつづく物語の起点として、十二分に機能をしていた。理想的とすら云える。
 だが、このミュージカルは。
 具体的に云えば、無駄な登場人物が多すぎる。いやさ、英雄が多すぎる。庶民が少ないくせに、王侯貴族と英雄が多すぎて、どっちの物語なのかわからない。
 もし、原作を完全に換骨奪胎するつもりで、キャラ人気をばっさりと斬ってでも作品のクォリティをあげるつもりならば。例えばだが、イシュトヴァーンは完全にいらない。リンダとレムスのうち、片方も要らない。マリウスもいらないだろう。となると、ミアイルの存在意義も怪しい。出てきただけのルナンもいるまい。
 モンゴール方の将軍、カースロンとボーラン以外は士官はいるまい。ふたりの将軍の対立を出さねば、だれがえらいのやらまるでわからぬ。ついでにフロリーも整理してしまってもいい。
 逆にアムブラの面々、カラヴィアのランやレティシアなどの庶民。かれらを「知らず知らずのうちに王を匿う者」として、もう少しクローズアップしてもいい。
 おれの見るかぎり、この展開で重要になるのは、ナリスとヴァレリウスの協力関係にありながら信頼しあってはいない関係と知略比べ、占領下にあってなお誇りを失わぬ人々と、敵方にも存在する事情と人間味、そして終わりなくつづく物語の連鎖、そういったものだ。
 作品の最後「物語は終わらない」と登場人物たちが自ら語るが、(あとで栗本先生もあれが云いたかった、と言及していた)アムネリスの逃亡をもってだけで、物語の連鎖を描くことはできる。別枠であそこまで大々的にやる必要もない。といっても、あの場面はこの作品の中では、ずいぶんと良いシーンではあるのだが。
 曲目は、この半分で十分だろう。(おれのはあくまで音楽メインではなく、物語を捉えやすく盛り上げるために音楽を使う、という考え方だが)
 いまの曲目数だと、歌っているシーンが多すぎて物語の理解を困難にさせる。純粋に「そこで歌うことはないだろ」というシーンも多かった。

 と、書いていてまとまってきたが、要するに、
・上演時間長すぎ
・曲多すぎ
・登場人物多すぎ
・原作ファンのみに向けているのか一般向けなのかわからない。

 セットに金かけているのはわかるが、その出費を減らすためにも、セットの数、シーン数は減らしてしかるべきだった。全体、暗転の多すぎる舞台というのは、見る側にとっても作り手側にとっても、あまりいいことにはならないと思う。
 舞台というのは、どうしてもストーリーを多角的に見るのには適さない。反面、人の感情などを生でたたきつけるため、役者の力量次第で、いくらでも臨場感は出る。
 そのためには、あまり見ている側もやっている側も、感情を途切れさせてはいけないと思う。暗転はどうしてもそれを途切れさせてしまう。同時に、セットを出したり片付けたり、やたら忙しくもなる。
(まあ、舞台をやろうとも思ったことのない、ろくに数も見ていない人間が、自力で何本も舞台をやっている仮にもプロにえらそうなことを云うのも変な話だな)

 この舞台は人件費やセットなどにひどく金がかかったそうだが、(けっこう客が入ったのだが赤字五千万らしい。本当に客が入ってこの数字なら製作の時点で間違いだし、本当はガラガラだったのなら、企画が失敗だな)その半分は無駄な出費だ、と断言しても良い。
 金がなくては表現できないことも存在するが、金をかければ表現力が上がるわけでもない。
 原作未読の人に向けて、思いっきり換骨奪胎する。
 原作既読の人専用とわりきって、いっそダイジェストにする。
 あるいは、いっそ原作にないオールスター出演のオリジナルストーリーにでっちあげてもいい。
 選択肢はいくつもあったのに、何故、この形式をとったのか。
 もともと、ミュージカルに向いた作品などではない。そこを敢えてミュージカルにしたのだ。自分がやりたかったから、以外に、ミュージカルである必然を感じさせて欲しかった。
 苦言を死ぬほど呈したが、個人的にはそれほどつまらなかったわけではない。
 なんだかんだ云って、最後まである程度は集中して見ることができたのだ。
 が、それには「ここでしか見られないから」という自分の貧乏性や、あー、懐かしいなーこの場面、という原作への追憶、そもそも原作ファンであるというアドバンテージ、などが重なっての結果だ。
 そしてそれを重ねてすら、よくできた作品、とは評することは出来ない。「がんばっちゃったね」という感じだ。
 もちろん、おれに栗本薫を止める権利はないし、止まる栗本薫でもない。なによりすべてが遅きに過ぎる。だが、それでもなお、一言こうつぶやきたい。
「これをいい思い出に、仕事をがんばろうね」
 今後も、金を出して栗本薫のミュージカルを見に行くことはないと思う。

お茶会前編 

 


 さて、そんな感じで上映は終わり、いよいよ(ある意味)メインの、中島梓を囲むお茶会である。
 はじめに断っておく。
 おれの負け試合である。自身の無力さを痛感した次第であった。

 お茶会といっても、上映会を行っていた小会議室というかスタジオというか、そこをパッと片付けて、会議机を出して「さあお茶会です」という簡素なもの。
 簡素とは云っても、五分前後は準備に時間がかかる。椅子をたたんで机を出してお茶やジュースを用意して、といったものだ。そんなわけで客は廊下に出て、事務所のスタッフたちが用意をするわけだが……
 なんでだれも指示出してないのに、みんなして作業しているの?
 普通になにもせずに廊下に出たのは、自分を含めて五人程度。あとの人間はなぜかみな忙しく準備をしている。
 こ、こいつらまさかみんなスタッフだったのか! いや、しかしみんなスタッフって、そんなバカな?
 上映中に、一度休憩をはさんだのだが、そもそもそこから疑問は感じていた。普通の客だと思っていた目の前の席の人が、おもむろにビデオを停止したのだ。そして、まわりの人間が、ほとんど知り合いのように色々な人に挨拶をしはじめる。
 特に目に付いたのは、対角線上に端と端に座っていた、数少ない男性のうち二人。一人はガリオタ風で、もう一人がデブオタ風で。その二人が丁寧語で会話しながら抱き合って「これをしなければ会った気がしませんねえ」と挨拶をしていたではないか。
 こ、これはまさにオタク式挨拶! いや、べつにいいんですぜ、そういう人種、嫌いじゃないです。ただ、まさか目の前で見られるとは!
 そんな経緯もあって、なんかおれだけ部外者みたいな雰囲気をちょっとだけ感じていたのだが、まあ、そういう感情はおれが常に持ち歩いているもの。どうせいつもの被害妄想だろう、そのときはそう思っていたのだが……

 ちなみに上映のおわったこの段になって訪れた人も一人いた。
「お茶会だけに千五百円(あるいは二千五百円)払う気か? ブルジョワめ!」
 と驚きと嫉妬の念を送ったのだが、その人は、あとで栗本へんへ曰く「身内のようなもの」らしいので、金は払わないでよかったのかな? 隣に座ってたし。だったらいいか。
 なんか『炎の~』出演役者さんの親衛隊やってて、それをやめて、今度は別の役者さん(でもやっぱり『炎の~』出演役者)の人の親衛隊やってる人らしくて、だからして外見もまあ「年季の入ったおっかけ」そのものでしたが、そんな他人の外見はどうでもとして
「? なんでそれで身内みたいなもんなんだ?」
 という疑問を二時間後の私に抱かせた。

 廊下で待っている間、することもないので壁にかかった天野さんのリトグラフを見ていた。アールビバンが売りつけていることで有名な、あの高い複製原画だ。
「たしか、天野さんからもらったってどっかのエッセイかあとがきで書いてあったっけ」
 そんなことを思いながら鑑賞する。絵柄はイシュトヴァーンのもの。『ヴァラキアの少年』の表紙の絵だ。
 おれはこの絵が好きで『ヴァラキアの少年』にも思い入れがあるので、素直に楽しく鑑賞する。
 素直といったが、まわりの状況をあまり認識したくないという気持ちもないわけではなかった。いや、あった。
 そもそもこの絵は、以前アールビバンの天野喜孝展に行ったときに、ドロンジョ様の絵と一緒に、ちゃんとじろじろと鑑賞したものだ。いまさら物珍しいものでもない。
自分のやけにうしろ向きな気持ちをひしひしと感じているうちにお茶会の準備が整ってしまう。
 好きな席に座っていいとのことだが、二人連れや知り合い同士の多い中、堂々と真ん中に座るのは気が引ける。あまり邪魔にならないであろう、机の端の席を確保する。
 この気持ちは、ほかの人も持っていたのであろうか、あるいは偶然なのか、ここのなじみでない人たちはあと三人ほどいたのだが、なぜかかれらに両隣に座られ、四人が固まってしまった。
 席にはすでにケーキが配られていた。モンブラン、レアチーズ、オレンジムースなど数種類のうち一つが無作為に置かれていた。
「欲しいケーキがある人は、近くの人と相談して奪い取ってください」
 梓が云うと、また爆笑が沸き起こった。くっ、今のも爆笑ポイントだったとは。またもタイミングを逃し、忸怩たる思いを抱く。
 紙コップにジュースやコーヒー、紅茶等がそそがれ、配られる。コーヒーは沸かしたものだが、ほかはペットボトルや紙パックから移したものだ。なんでもよかったが、おれはとりあえずミルクティーをもらうことにした。
「飲み物類はここにおいとくので、フリードリンクで好きなように飲んでください。この辺の人たち適当にこき使ってもいいんで」と梓は云っていたが、その後、席を立って飲み物を取りに行ったり、ほかの人に飲み物をとってもらえるような空気には、まったくといっていいほどならなかったし、事実、だれもおかわりを所望したりしなかった。
「じゃあ、どうしましょうか。とりあえず、ケーキをいただきましょうか」
 とのことで、五分間くらい、ケーキタイムがもうけられ、みな、一言もしゃべることなくケーキを食する。重ねて云うが、二人組みや三人組、夫婦などもいたのだが、だれも一言もしゃべることなくケーキタイムは進行した。
 おれは、当然一人だし、しゃべる相手もない。仕方なくケーキを食べることに専念する。幸い、甘いもの、特にケーキは好きだし、おれにあてがわれたモンブランは好物だ。最近甘いものを絶っていたこともあって、一口一口味わいながら、非常においしくいただく。
 しかし……なんとなく目を周囲にはしらせ、思う。窓一つない地下室で、会議机とパイプ椅子に、紙皿と紙コップでもくもくと店売りのケーキか……
 おれは形式にこだわる方ではなく、ケーキもうまいから文句はないのだが……なんか、お茶会という優雅な言葉からは、遠く感じてしまうなあ……
 念のため余分にケーキを買ってきていたようで、二個ほどあまったらしい。
「だれか甘いもの好きな人、二つ目食べます?」
 梓とスタッフが聞いてまわるが、だれも一言も発さない。おれはこういう空気に弱い。だれかが「じゃもらいます」と一言いえばそれで済むのに、なぜだれも云わないのか。一分くらい経ってもだれも反応がないので、
「あ、それじゃぼくもらっていいですか?」
 と催促する。まあ、普通にケーキが食べたかったし、せっかく金だしたんだから少しでも元とらなきゃね、というド貧乏根性がなかったともいえない。いや、あった。ーその気持ちに気づいたときに、私はミュージカルに金額分の満足を抱いていない自分を再発見したのであった。

「じゃあ、そんなわけで、さわかいをはじめましょうか」
 澤会? なんでそこで沢田研二のファンクラブが?と思ったが、どうやら「茶話会」のことらしい。この後、何度も「茶話会」という単語は出たが、全部「澤会」と頭の中で変換してしまい、ジュリーのことを思い出す。そうか、澤会って茶話会のもじりだったのか。今まで気づかなかったな。
「あ、その前に飲み物とかもうない人いる? それじゃこっちらから飲み物回しますね」
と飲み物のパックが回される 
 なぜかぼくのところにはまたミルクティーが回されてきたが、二杯目はべつのがよかったので、あっちから回ってきてるレモン水が回ってくるのを待とう、とミルクティーを新田君のように華麗にスルー。
 が、このスルーは間違いだった。回してる途中で梓が話しはじめたため、飲み物はそこでストップ、レモン水もほかのジュースもすべてぼくの手の届かない距離で止まってしまったのでした。
 こうして唯一のおかわりタイムを逃したぼくは、およそ二時間のあいだ、のどの渇きに苦しむことになるのですが、ぼくの事情なぞ知ったことじゃないので、とっとと話を進める。
 そういえば、飲み物もそうだが、二時間のあいだ、だれもトイレに行かなかったのも印象的ではあった。途中でトイレに行くと、小学校みたいにからかわれるのであろうか。謎は尽きないが、やっぱりどうでもいいことなので話を進める。

 ところで、ご存知の通り、時は六月上旬。晴れたらアッツイが、雨だと適温、そんな今年の空模様。しかし電車内や建物内は暑い日に備えてわりとクーラー効かせ気味で、下手に薄着していくと凍えてしまう。
 当日がまた微妙な天気で、服装の判断に困った僕は、とりあえず、薄着のうえにコートを着て出かけることにした。暑ければ脱げばいいだろう、という妥当な判断だ。さすがおれ、賢い。
 ところが歩いているうちに汗をかくことかくこと。すわ、これは失敗か、と思っていたのだが、意地で脱がなかった。男には譲れないものもあるのだ。
 が、その暑さとも、会場内に入ったらおさらば。GANGANにかかったエアコンたんの吐息がぼくを優しく包んだのです。間違ってなかった! おれの判断は間違ってなかった!
 そんなこんなで上映中は快適に過ごしたのですが、休憩中などに見るともなく周りの人を見ると、見事にほとんどの人が夏仕様。長袖着てるのなんて数えるほどしかいなかったし、コート着てるような季節感のない人間はおれぐらいだったかもしれぬ。
 むう、おれの体温調節機能がかなりぶっ壊れ気味なのは確かだが(注・うなぎは真夏に皮ジャンぐらいなら平然とやってのけるナイスガイです)みんな寒くないのだろうか。コート着てるおれでちょうどいいくらいなのに。
 そんなことをぼんやり思いつつこの時まで来たのであったが、この段に至ってついに中島先生が動き出したのであった。
「あ、クーラー寒い? 大丈夫?」
 みなに尋ねる先生。いやあー、さすがに寒いだろうな、みんな。じゃあクーラー止めたら、おれもコート脱ぐかな。そんなことを考えながら、みんなの「ちょっと寒いです」という言葉を待っていた。
 ない。
 そんな言葉はなかった。
 え? あれ? 遠慮してるの? と思っていると、二秒後くらいに先生、
「大丈夫? 大丈夫だね」
 はやっ! 先生判断はやい! 判断早いよ先生! 早すぎるよ!神速のインパルスだよ先生! 
 いいのかなー、と思いつつも、まあ、おれには過ごしやすいからどうでもいいか、とスルーを決意する。おれ自分さえ良ければどうでもいいのだ。まさに外道!
 そんなこんなで、エアコンたんが必死に働きつづけるなか、栗本先生が話しはじめたわけですが、
「じゃあ、どうしようか、どうする? こっちから先に話す? それともみんなに先に話してもらおうか?」
 話をふり、それにだれも答えぬうちに、
「あ、その前に先にモノを見てもらおうか」
 梓は部屋を出て、いそいそとなにかを取りに行く。
 残された人たちがはじめて「モノ? モノってなんだ?」とちょっとどよめく。期待の色があふれていた。おれも「ん?なんだ?」と興味を惹かれたのは否定できない。
 もどってきた梓が抱えていたのは、数冊の本だった。
 出版前の新刊かなにかか? と思ったが、そうではなく、最近いくつか刊行されている、外国語版のグインサーガだとのこと。
 イタリア語版、フランス語版、英語版、ドイツ語版。
 へー、そんなに出ているんだ。ぼんやり感心する。どうせ外国で完結まで出るはずないんだから、やめりゃいいのに。ま、日本でも『時の車輪』シリーズとかえらい巻数でてるし、いっか。(しかも完結まであとちょっとのところで作者死んでるし)
「ほら、イタリア語版とか表紙になぜかカタカナが入ってるんですよ。なんでだろうね?向こうじゃカタカナがかっこいいのかな? ドイツ語版の絵とかひどいでしょ? もー誰これ? だれ?」
 梓がはしゃぎながら解説し、みんながドイツ語版で爆笑する。たしかにドイツ語版の表紙絵のひどさはなかなか笑えるものだったが、すっかりタイミングずれがくせになってしまった私は、また笑うことも出来ず、は~~~っとぼんやりする。と
「じゃあ、回すから自由に見てくださいね」
 え、いや、そんなこといわれても、おれ、日本語しか読めないし、べつにいいです……
 と思ったが、みんな大喜びで回し見る。仕方なく、おれも回ってきたのをぺらぺらめくり、しかし中には挿絵が一つもないので、表紙をじろじろと見る。
 まあ、けっこうカッコよい装丁になってはいるものだ。しかし、やたらデカイが、これ一冊で何冊分なんだ? と英語版のタイトルを見てみたが、なんとこれ、一冊が一冊分らしい。
 となると、このくそデカイ重いハードカバーの本が百冊越えするんかい。はー、海外のファン(いるのかどうかしらんが)は大変だな。でも、どうせ愛蔵版グインサーガと同じで、途中でやめるんだろうな。だから、ま、いっか。
「あとロシア語版もあるんだけど、まだ私のところにも届いてないんですよね」
 すると、一人のオタクっぽい人が(なんて云ったら、おれも含めその場にいた人、ほとんどがそうだったのだが)「ハイ!持ってます、持って来てます」と、カバンからいそいそとビニール袋に入ったロシア語版グインサーガを三冊ほど取り出す。はー、さようでございますか。と生暖かい目で見守る。
 そんなこんなで回し読みタイムも終わったようで。
「じゃ、どうしようか。えーと、どうでしたか、炎の群像。もう十一年も前ですからね。前に見たことある人もいるのかな。それじゃ、前に見たことある人いるかな?」
 と、みんながずらっと手を挙げる。みんなとしか云いようがないほどみんなだ。
「じゃ、今回が初めてって人」
 自分を含め、五人ほどしかいない。薄々感づいてはいたが、衝撃を受ける。そうか、こいつらみんな、十一年越しのミュージカルおっかけか!
「じゃあ、こっちの人から順に感想と、あとなにか質問があればどうぞ」
 みたいな感じで、順番に一人ずつが話すことになる。
「じゃ、最初の人、~~さんから」
 な、なんか梓が名前知ってるんですけど。
 どうやら天狼パテオでの梓のパソ通ともだちの一人らしい。なんとなーく、わかってきたのだが、どうやらこの場に来ている人間のほとんどが、中島先生のパソ通信友達らしい。どうやら被害妄想ではなく、真実、おれは部外者であったらしい。
 なんだっけな、こういうさ、ネットでの友達が、集まってお話する会合。なんか呼び方があったよね。
 お深いというかお不快というか……
 オフ会、そうオフ会!
 これ、オフ会じゃん!
 オフ会じゃねえかよ! オフ会だったのかよ!
 あわ、あわわわわわわ。
 じゃあ、これってオフ会に赤の他人が紛れ込んでしまったっていう、そんな状況か? そんな状況なんだな?
 ぐ、ぐむう。
 まあいい、おとなしくみなさんの話を拝聴しよう。そのうちノリもつかめてくるだろう。

お茶会後編 

 
まず、当時の思い出話、そして「炎の群像」がいかに面白かったか褒め、ごひいきの役者なんぞの話をする。
 どうやらこれがデフォのようで、たいていの人はこんな感じだった。
 まずみんなが一話す、するとそれに対して梓が五話す。みんなが真剣に梓の話を聞き入る。質問をする。梓が五倍量話す。いちいち盛り上がる。
 いや……梓、話しっぱなしじゃねえか。これ、オフ会ですらなくて、梓のワンマントークショーではないか。だれも雑談なんかしてないし、ひたすら梓の話に聞き入っている。
 しかし、この梓のマシンガントークを聞いていて、一つ謎が解けた。以前から、なんで神楽坂倶楽部の日記はあんなにも言葉がアレなんだと思っていたが、どうやらあの日記、まったくもって完全に言文一致体なのだ。
 話し言葉というのは、だれしもわりあい間違いに満ちている。例えばこのお茶会でも栗本先生は「あれからちょうど一年、以上」とか話していたが、あまりおかしいとは感じなかった。というのも、流れ的に、正確に記すならば
「あれからちょうど一年(いや、ちょうどじゃないか、もっと経ってるか。えーと正確なのはわからないけど、とりあえず一年)以上」
 というような意味だとわかるからだ。
 それに、言葉の接ぎ穂のためだけに、あまり意味のない言葉をいっていることは、口語にはままある。さらにおばさんというのは、デフォ仕様として話がループするものだし、だいたい三割から五割は無意味なことを話しているものだ。おばさんとうまく話せない人はその辺がわからず、イライラしたり混乱したりする。上手い人は、適当に聞き流しながら、わかる話題だけを拾う、ということが、無意識に近いレベルでできるものなのだ。
 こういった話し言葉の負の面を、まったくもって忠実にトレースして書かれているのだ、あの日記は。おそらく、話すのとほとんど同じ速度で書かれているのだろう。
 凄いと思うのは、通常ワープロソフトでの文章というのは、推敲しようという気がなくても、ある程度は推敲できてしまうものだ。漢字変換があるからだ。
 変換するときに、どうしても少し文章を読み直してしまうし、そうするといらない部分をちょいと削ってしまったりする。栗本先生は、この漢字変換の際にすら、執筆が止まることはないのだろう。
 いったいどんな人間なのだ。いい意味でもわるい意味でも感心が止まらない。しかし、会話ならわからなくても勝手に流れていくだけだが、文章だと、どうしても意味のない文章や変な文章が続くと目が止まってしまう。それ以前に字面的に読みづらくなって、拒否反応が出てくる。だからあの日記の文章のおかしさは際立ってしまうのだろう。
 とにかく、栗本先生の話し方は、あのネットでの文章、まるきりそのままだった。

 話題は、役者関係のものが多く、みなもまた、それが一番盛り上がっていた。
「あの頃のなんとかさんは若かった、可愛かった」
「最近のなんとかさんはどうだこうだ」
 そんな話をたくさんしていたが、なにせおれにしてみたら、今日初めて名前も顔も知った役者さんたちである。あの頃はとか云われても「ああ今はみんな歳くってんだ」程度にしか思えず、反応に困る。  ただわかったのは、ヴァレリウス役をやった人が一番人気だということだけだ。
 合間合間に、小説などの話も入る。グインサーガは百十一巻まで書きあがっていること。
 次に出版される百九巻のタイトルは『豹頭王の挑戦』だということ。この部分でみなさん大盛り上がりだった。そうか、タイトル当てとかで盛り上がっていたのは、こういう人たちだったのか、と感慨深くなる。メモったりしてる人もいる。
 タイトルとか、わりとどうでもいいし、そもそもみんなして先日発売したばかりの百八巻の内容を「読んでない人は耳ふさいでくださいねー」とか、喜んで話したり内緒にしたりしているのが、なんとも心苦しい。
 なにせおれはグインは百一巻を読み途中で、新刊を必死に追いかける気なんてまるで皆無だ。挫折したわけでも新刊を追いかけているわけでもない。なんとも中途半端な自分の立場が心苦しくてならない。
 ハルキホラー文庫の新作ホラーを二日で百五十枚書いて、脱稿したばかりらしいこと。
「怖いよー」と煽るが、また反応に困る。(ホラーはもういいよう)という内心を悟られてはいけない、そんな気持ちで一杯だった。
「ハルキ文庫さんというのは凄い仕事が速くて、原稿渡してから一ヶ月後には出版されるという」
 いや、それは早すぎだろ、ハルキなにをするだー! という感じだ。さすがハルキ! おれたちにはできないことを平然とやってのける! そこにシビれる! 憧れるぅ!
「あ、そのホラーのタイトル予想してきたんですよ」
 おれが一人ジョジョごっこをしていると、客の一人がなにやらメモを取り出す。栗本先生のホラーは漢字一文字のが続いていて、次のも漢字一文字らしいのだ。漢字一文字で、ホラーっぽい文字だから、たしかに予想はしやすいかもしれない。だからってしなくてはいけない道理もないが。
「もう、昨日寝ないで何個も考えてきたんです」
 となにかに急き立てられるかのようなテンパッたしゃべり方で、彼は三十数個のタイトル案を梓に申告する。当たりはあったらしいが、どれかは秘密らしい。
「三個だけ云ってみて、当たったらサイン本をプレゼントしましょう」
 期せずしてタイトル当てクイズがはじまり。必死で三つのタイトルを挙げるが、ハズレ。楽しそうで何よりだ。楽しんでいる人がいるように思えなかった栗本先生のホラーにも、こうやって楽しんでくれている人たちがいたのだ。不思議な気持ちもするが、それならなによりだ。

 六道ヶ辻の新作もまた出るらしい。全六巻の予定はどこにいったのだろう。そもそも紹介するときに「大道寺もの、というか、ええと、大正浪漫ものの新作もまた新しく一つ」
とか云っていたが、このシリーズの大タイトル『六道ヶ辻』はどこへ消えたのだ。
『朝日のあたる家』の続きが二千枚、脱稿していて、年末に出るらしい。
「おおっ、出るのか!」という気持ちと「ゲーッ!出ちゃうのか」という気持ち、その双方が同時に襲ってくる。二千枚。それって、『朝日のあたる家』全五巻とほとんど同じ長さではないか。
 ああ、そんなに書いてしまったのだなあ。
「男性の方にはおすすめできないですけど」
 いまさらなにを云っているのか。ここまで来る人間が、ホモを怖がっていられるものか。嫌な人間はとっくにファンをやめてる。
 ああ「朝日のあたる家」
 それはおれがはじめて読んだ栗本作品で、いまもなお、心に燦然と輝く名作だ(三巻までは)
 透がまた見れる。続きが知れる。それは非常に嬉しいことだ。あの五巻ですら、おれはけっこう楽しめてしまった。だから、結局この新作も読むだろうし、そこそこ楽しむかも知れない。
 けれど。けれど。
 どうせなら、もっと文章がまともになってから、書いて欲しかった。いろんなものを楽しんで、エネルギーを補充してから書いて欲しかった。それもまた、偽りようのない気持ちだ。
 ああ、それでも、もう脱稿してしまっているのだ。それも二千枚。
 二千枚も、なにがあるというのだ、あの話に。そんなにいらない。
 ただ切なさが欲しい。
(追記・で、結局、脱稿していた二千枚ってなんのことだったんだろう……『嘘は罪』も『ムーン・リヴァー』もそんなに長くないし……謎ばかりが残るんだぜ……)

 そうこうしているうちに、おれの番になる。よりによって真ん中あたりで番がきてしまった。最初の方なら、勢いで色々云えたのに。最後の方なら、云い逃げできたのに。こんな真ん中で番がきてしまったら、このマンセー空気を壊すことなんて、できやしないじゃないか。
 いや……でもこれは、負け犬のいいわけだな。きっと、どこで番が来ても、おれはへたれてしまったにちがいあるまい。結局、無難に
「今回はじめて見たこと。栗本先生の舞台自体がはじめてなこと。上演当時は高校生で、田舎に住んでいたから見れるはずもなかったこと(当時に大人で東京人でも見る気なんてなかった、などとは云えるはずもない)感想としては、グインサーガなのにグインでてこねえー。まあ、グインを役者の細い体型でやっても無理があるし、しょうがないのか。タイガーマスク呼んでくるわけにもいかないしな。全体としては、思ったよりちゃんとまとまってたな、と(ちょっとえらそうに)あ、えらそうですいません」
 そんな感じで、やり過ごす。
 先生は
「グインを実写でやるとしたらそれこそシュワルツェネッガーくらいしかいませんからね(笑)いやいや、まとまってるのは大事ですし」
 などと、あまり盛り上がる感じもなく、べた褒めしないからか、微妙に流したいような空気を感じた。
 さて、質問はなににしよう。さっきからずっと考えていたのだが「まかすいの続きは?」とか、いまさら云ってもなんだかなあ、だし、「魔剣は?」とか「バサラは?」とか「さらば銀河は?」とか聞いても、もしかしたら本気で忘れてそうだし、そもそもあれらの続きが出てもおれは嬉しくねえ
 あっ、そうだ「朝日のあたる家のつづきは?」これが無難だ、出そうだし。そう考えていた矢先に、前記のとおりに「出る」と云われてしまった。
「舞台まだやる気なんですか?」だめだ、なんか刺がある。
「久世光彦の本、ちゃんと読みました?」やっぱ刺があるな。
「悪魔のようなあいつのDVD、出てるの気づいてます?」刺があるってば。
「最近気にいったやおい以外の小説は?」なんか刺があるんだよなあ。
 もっと無難に、無難に、えーと。
「じゃあ次の人」
 質問すらされずに流されたー!?
 なんだろう、このホッとしたような悔しいような……でも感じちゃう……!
 ぼくがクリムゾンごっこをしているうちに、次々と会は進行していき、薫のトークもまた、とどまることを知らなかった。

 以前から噂のあったグインのアニメ化は、じんわり進行中らしく、脚本があがったらしい。なにやら虫プロにグインの大ファンがいるらしく、その人がライフワーク的に考えているそうだ。(ここでライフワークという単語を思い出すのに時間のかかった栗本先生萌え)
「それって形式はどういう形で?」
「え?形式……というと?」
「テレビとか、ビデオとか」
「ああ、OVAです、劇場公開されます」
「おおおー」
 いや、おおーじゃなくて、OVAなのか劇場作品なのか、どっちだよ。多分、栗本先生もよくわかっていないんだろうな。
 脚本があがっただけだから、完成はまだまだ先だろうとのこと。まあ、『ゲド戦記』と『ブレイブストーリー』次第だろうなあ。どちらかが大当たりしたら、ちゃんと劇場公開できるだろうが、さて。 (追記・結局、劇場公開でもOVAでもなくテレビシリーズだったわけだが、この情報の錯綜具合はなんだったんだろうか)

 中島梓名義の評論本も出すらしい。タイトルも云っていたが、失念。
 どうやら『コミュニケーション不全症候群』『タナトスの子供たち』の系統の話で、やおい、オタク文化系の話らしい。
 うーん、あの辺のは『タナトス~』でもう無理っぽい感じがでまくっていたしそもそも栗本先生はもう時代の先端からずいぶんと取り残されている気がするから、向いていないと思うんだけどなあ。まあ、本人は先端のつもりだろうから、しょうがないか。
(追記・結局、評論本なんて出てねーし。書きあがらなかったのか書いてもどこも出してくれなかったのか、やはり謎は尽きない)
 えーと、あとはなんだっけ、伊集院大介の短編集が出るらしいのと、どこぞで伊集院大介ものや夢幻戦記ものの漫画アンソロジーが一冊出るらしい。もっと前から出る予定だったのだが、出版社がつぶれて(ビブロスのことだろうな)べつの出版社に企画が流れたらしい。
 あとはまあ、舞台の話ばっかで、「炎の群像」では五千万の赤字、「天狼星」では八千万の赤字が出たとか、そんなわけで、もう歳だから今後は大きい舞台はできないかなあ、とか(黒字、せめてトントンにしようという気はないのだろうか。できないだろうけど)「炎の群像」の衣装は捨てようとしたところ早川がひきとって、サイン会などで社員が着ているとか、「炎の群像」の打ち上げとかで役者がふざけまくった話をぼちぼち。
 まあ、役者がプライベートでそういう性格なのは、知り合いに役者志望がいるから知ってるし、べつに良くも悪くも興味もない人たちの話なので、ぼくはスルー一択だったが、みんなはたいそう楽しそうに盛り上がっておられた。内輪向けの裏話ねえ。
 唐突だが、とにかくみんなヴァレ×ナリに萌えていることが印象的であった。逆を云えば、そうでない人はふるい落とされてしまったのだろうか。まあ、延々と何十巻もあのカップリングをプッシュしてたんだから、そのファン以外には辛かろうのう。
 個人的には、ヴァレリウスもナリスも好きだが、カップリングとしてはだめなカップリングだなあ、と思っていたりしますが。
 ところどころ、男性に遠慮するように、煩悩を控えめにしているような雰囲気が流れて、なんか悪いような気がした。べつにおれは全然まったく腐話は平気なんだがのう。まあ、ほかにも男の人いたし、なにより子供もいたからなあ。
 しかしその十四歳のかれ、いま三十八巻まで読んでるらしいが、どこでいろんなあれやそれやに気づいてしまうのだろうな。がんばって読めよ。
 ちなみに腐話を具体的に云うと、
「ヴァレリウスはこの後、幸せになれるんですか? だとしたらそのお相手は?」
 みたいな話を腐女子の方がへんへにふったのだが、へんへもほかの方々も、決して男キャラの名前を出そうとはせず、なぜか「リギアさんとかならスカールさんがいますしねえ」と関係のないキャラ話に。
「いやあ、ヴァレリウスのお相手になるのはだれなんでしょうねえ、みなさん」
 と先生がまわりにふってその話は終わった。
 おれはおれで「ヴァレはグラチーとイェラ爺の間で、白魔道と黒魔道のどっちもに誘われながら、なんとなーくどっちとも交友が続いて、気がついたら新しい三大魔導師の一人として、新凸凹トリオみたいになるのが読者も本人も幸せに違いあるまい」と妄想したりしていた。
 基本的にはおれも痛いファンであることには変わらないのだ。

 印象的なお客としては、となりに座っていたのがお初らしい夫婦だったのだが、奥さんが腐で、旦那は奥さんのすすめで読み始めたらしい。
 その説明を聞いた梓はういういと「布教ですね」と答えた。自虐ギャグのつもりかなんか知らんが、ちょっとそういう言い回しはやめて欲しいな、と思った。他の場ならともかく、この状況ではシャレんならん。
 客の中でもおれは年齢・性別、外見ともに浮いていたと思うのだが、おんなじように浮いていたのが、やはり隣に座っていた男性で、初参加のうえに一人できたらしく、年齢は白髪混じりの頭から察するに、四十後半からあるいは五十にも達するか。
 古いSFファンなのかな?と思っていると、さにあらず、グイン歴は五年くらいで「みなさまと比べると新参なのですが」と仰られていた。
 はー、こういう年齢の新規ファンが、二十一世紀以降にもいるんだあ。素直に感心する。てっきり栗本薫はY2K問題にぶちあたって、新規など皆無だと思ってたのに。
 ちなみにその人は無礼な若者である私とちがい、ちゃんと「カメラワークとかこだわっていて良かったです」と如才なく答えていた。年齢の差であろうか。まあ、あの歳になってもおれは失礼なままっぽいが。
 あとでよく考えてみたが、舞台作品において、本来想定されていないカメラワークを誉めるというのは、ある意味、本編には口を出さないという高等テクニックである。年齢とは狡猾なものだと舌を巻く。どうでもいいがこの人、帰りにガチホモ同人誌も購入していたが、いったいどこまで理解して栗本先生についていってるのか、あるいは理解している「からこそ」栗本先生についていっている層なのか、微妙に気になったが、他人事なので忘れることにした。忘れることにしたといいながら、数日経っても覚えているという事実はご愛嬌である。

 そんな感じで、みなさんの思い出話と「炎の群像はすばらしい」というお声、その五倍量の栗本先生のお話が延々と繰り広げられ、またたく間に二時間が過ぎました。
 最後に先生は、
「急に営業になりますけど、『浪漫之友』などの同人誌など、云ってもらえればお売りしますので、よければどうぞ」
 と云い「それではお疲れ様でした」ということで、お茶会は終わった。最後の最後まで、栗本先生以外はしゃべらないお茶会であった。
 あ、思い出して追記。ワークショップの宣伝もしてたな。
「プロも二、三人出てたりします」とのことだが、二人なのか三人なのかはっきりして下さい。つうか本当ならちゃんと作家名教えてください。江森先生やサーモン先生クラスの才能なら、あたし、読みます。とか思ったが、最近本読むのだるいし、いっか、とすぐに思い直す。
 あと、最初の方で、
「この部屋、貸しスタジオとかもやってますので、安くしますので必要な方はご相談ください」
 なんて云ってたが、なんか新しい展開だな、とオモタ。小説家が事務所を貸しスタジオかよ。それは想像してなかった。つうか、栗本先生がいつもいるのかいないのかは知らんが、アンチの人や危ない人が、先生目当てで借りたらどうすんだよ、と心配になる。
 心配になったのが先生の身体なのか心なのか頭の中なのか、それは云えない。(注・アンチの人がもし見てたら、お願いだから本当に借りたりしないで下さい。いちおう、栗本先生の復活を楽天イーグルス優勝ぐらいには信じてますので)
(追記・楽天ゴールデンイーグルスの優勝は別に夢でもなんでもなかったスね。栗本先生の復活は全て遠き理想郷でしたが)
 部屋を出ると、出口のあたりで同人誌をわきに置いた栗本先生が、客の相手をしていた。もっぱらもちこんだ本(たいていグインサーガ)にサインをしていたのだ。たまに同人誌を買う人がいて、その人には同人誌にサインをしていた。
「~~さんへ 栗本薫 2006/6/11」というオーソドックスなものだが、驚いたのは、べつに聞いてもいいのに、栗本先生が相手の名前を書いていること。な、名前を知っている相手ばっかりのサイン会……か……
 そうこうしているうちにおれの番になったので、『通信教育講座総集編』を買う。ガチやおいらしい、ということ以外、よくわからない本だったが、ここか通販でしか買えないし、百八十頁で千円だから、同人誌にしてはかなり安い。まあ、記念みたいなものでいいだろう。
「ええ? 大丈夫? 男の人だと動転する人も多いけど」
「ああ、大丈夫です。うち、そういうの何百冊もありますから」
「あ、腐男子? ちがうか」
「まあ、そんなものです」
「じゃあ、サインしますね」
 みたいな感じで、サインされる。おれの名前はどうするのかな、と思ったが、普通にスルーされた。
 外に出たのは、もう七時前。かれこれ六時間もいたことになる。いろいろと感慨にふけりながら、帰途につくことにした。

 
帰途 

 
 ここから先の文章は、いたって私的な、栗本薫に関して思ったよもやまごとであって、もはや上映会とはほとんど関係がなかったりする。だから上映会の様子が知りたいだけの人は、読まないでよろしい。むしろ読まないで欲しい。
 そもそもアンチの人たちには読んで欲しくない。かれらが嫌いだから。
 でも信者の人にも読んで欲しくない。かれらは痛いし、幸せなのだから。
 ま、ネットで公開しているのだから、だれが読もうと止める権利もないし止める気もない。ただ一つだけ云うなら、お願いだからだれも栗本先生にご注進しないでね、ということと、文中でちゃらっと描写された人が不快に思ったなら「ごめんちゃい」ということだけだ。
 あれ? 一つじゃなくて二つ云っているな、おれ。そもそも謝るのが遅い。まあいいか。
 なにはともあれ、この上映会が、自分の中での栗本薫に対して、一つの区切りを刻んだことは確かであって、他人的にはともかく、自分的にはこの日記に色々と記しておかなければならない。
 なんかこう書くと、心の中で栗本先生にさよならしたとか三行半をたたきつけたとか、そんな意味にとられそうですけど、そんなことはないのです。
 とりあえず断言できるのは、これから書くことは無内容で、そして痛い。そんだけだ。

 さて、おれは帰りの電車に乗ったものの、このまま帰るのもなんだなあ、と思い、田町と近いこともあって、秋葉原に下りてみた。普段わざわざ来ることもないので、近くに寄ったから、ちょっとついでに、というわけだ。
 が、これは結果的にはまったくの無駄足で、結局なにも買わなかったし、そもそも買いたいものも特になかった。買える精神状態でもなかった。ただ秋葉原の店はあいかわらず臭かった。
 駅から出てすぐのところで、メイド喫茶の人たちが客引きをしていた。わかりやすいチェックのシャツを着たオタクの人たちが、写真なぞ撮っている。メイドのみなさんは、あいかわらず陰鬱な、死んだ魚のような目をしている人が多く、笑顔になれていない感じがなんとも云えなかった。おれが金持ちだったら、こんなメイド雇わない。
 だがまあ、こんな商売でも、それを楽しめる、救われる人はいるのだ。疎むことはあれど、否定してはいけない。理解できぬものを疎むことはできても、否定などだれもできないのだ。
 しかし……おれはこっちの世界ついぞも理解できぬままなのかな。今のやおいにもついていけず、アキバ系はそらぞらしく、かつて尊敬した人物を信じきることもできない。まったく、おれは中途半端なままだ。

 いいぞベイベー!
 エロオタはきもい奴だ!
 腐女子はよく訓練されたキモイやつだ!
 ホント アキバは地獄だぜ! フゥハハハーハァー 

 疲れていたのか、そんなことを考えながら歩く。とにかく歩く。かつて、『魔界水滸伝』で、こういうセリフがあった。意訳だが。
「なに、人間はその時間に考え事ができるってものさ」
 瞬間移動のできる妖怪たちが、移動に時間のかかる人間に「不便だな」と云ったことに対しての、主人公の返答だ。さりげないセリフだが、好きだった。
 足りぬもの、望んでも手に入らぬものをうらやむのではなく、自分の能力を前向きにとらえる。当たり前で、大切なことだ。以来、私は歩く時間は考えをまとめる大切な時間と認識し、思考がこんがらがると、歩きながらまとめる癖がついた。
 要するに、天狼プロダクションを出てからも、私はしばらく混乱していたらしい。失望とも疲労ともつかず、なにかもやもやとした、一言で断じることのできない感情が、言葉にならずに澱んでいて、自分の中で栗本薫をどう処理したものか、わからなくなっていた。だから、ともかく歩くことにした。秋葉原から池袋まで一時間あまり、考えるにはちょうど良い距離であり時間だ。

 思考は、まず泣き言からはじまった。
 あの部屋のことを思い出す。
 あまりにも優しく、それゆえに残酷な、あの部屋の空気。
 楽しげなみんなの話の中、時折、ぼくの頭の中を去来する歌があった。

 愛が溢れすぎているよ この部屋は暖かすぎる
  まるでセーフティ・ゾーン

 ぼくの好きな歌手、沢田研二の『6番目のユ・ウ・ウ・ツ』だ。
 他意はない。ただ、本当にこの部屋は暖かすぎると思った。
 歌はこう続く。

♪ 毎日ぼく 眠れない やるせない
 毎日ぼく 生きてない 愛せない

 暖かすぎる部屋では生きてない、愛せない、やるせない。本当にその通りだ。
 思えば、ぼくがジュリーのファンになったのも、栗本薫の影響だった。その沢田研二も、いまやインディーズ落ちして、自分の好きな地味な音楽を、自分の好きなようにやっている。昔のことは忘れてくれといわんばかりに。まあ、彼のことはいい。彼はもう、明らかに勝負から降りているのだから。
 だが、栗本薫は。
 まだ終わっちゃいないはずだ。まだいけるはずだ。まだ降りてはいないはずだ。なのに、なぜあの部屋にたどりついてしまう? そこがあなたの終着点なのか? そこがあなたの目指した彼岸なのか? そこにたどりつくために、あなたは書きつづけてきたのですか?
 言葉を飾らずに云うのなら、あの部屋で行われていたのは、カルト宗教のミサだ。教祖さまと、お言葉を賜る信者そのものだ。比喩にも揶揄にもなっていない。ただの事実だ。
 だが、それを悪いとは、おれは思わない。所詮、作家なんてある意味では宗教家だ。
 自分の信奉する「物語」という神を民に広める、異教の祭司だ。
 だが。
 あなたの神殿はそんなに小さな部屋でいいのか?
 あなたは、もっと大きな神殿を治めることも出来たはずだ。
 あなたの信奉する神は、もっと偉大だったはずだ。もっと多くの民を救えたはずだ。
 あなたは私のジーザス・クライスト。あなたのゴルゴダの丘は、そんな児童公園の砂山のように小さく頼りないものではなかったはずだ。
 あなたは、もっと多くの人の前に立ち、導いてくれる人だったはずだ。そんな小さな祭壇で満足している人ではなかったはずだ。
 もっと野心家で、もっと傲慢で、もっといい加減で、
 もっと気高く、もっと薄汚れ、もっと愛を受けていた。
 この思いすらも、矢代俊一に仮託し「ファンの身勝手なきめつけ」と断じて捨てるのか。

 あなたは知らないだろう。
『朝日のあたる家』を読んだ時に、私の世界が色を変えたことを。
 あなたは知らないだろう。
『小説道場』に私が何度勇気付けられたかを。
 あなたは知らないだろう。
『滅びの風』で流した私の静かな涙を。
 幾たびも重ねた、何年も積み重ねた、あなたへの敬意を、崇拝を、憧憬を。
 また憎しみを、信頼を、情熱を。
 なにも知らないだろう。
 知らないでいいのだ。
 あなたは知らないでいいのだ。
 あなたは語り部、あなたは巫女。
 神の座に近く、我々凡愚な民衆とは立場を異にする者。
 あなたは我々のことなど知らなくてもいい。
 あなたは我々の目の前にその姿を晒し、我々の言葉に耳を傾ける必要などない。
 あなたが聞くべきは「物語」という神の預言、ミューズの囁きだけであるはずだ。

 なのになぜ、あなたはそこに居るのだ?
 このぬるま湯の地獄で、あなたはどんな言葉に耳を傾けているのだ?

 中島梓とのお茶会。それは私の夢だった。
 かつて、小説JUNE誌上において、小説道場門弟と中島梓のお茶会が開かれた。私が、どれだけそれに憧れたか。あの場所にたどり着くことを、どれだけ焦がれたことか。
 いつか、小説道場に投稿すると思っていた。JUNE小説など書かないくせに、まるで確信のようにそう思っていた。あの席にいつか自分はたどりつくのだと、根拠もなく信じていた。
 そして、私はたどり着いたのだ。二千五百円という代価を払って。
 ちがう。おれが欲しかったのはこれじゃない。こんな場所にたどりつきたかったんじゃない。ここは、あの場所じゃない。
 どこだ?
 ここはいったいどこなんだ?
 おれはいったい、何を求めて、どこにたどり着いてしまったんだ? こんなはした金で買える、そんなものが欲しかったんじゃ、なかったはずなのに。なんでおれは、ここにたどりついてしまったのだろう。
 おれは、何を求めていたんだ?
 彼女は、何を求めているんだ?
 ここが、終着点なのか? 
 本当に、ここが終着点なのか?

 思いは、疑問とも苛立ちとも失望とも戸惑いとも似て、しかしどれとも断言できなかった。なんとなれば、この後に及んでなお、私はちっとも彼女を嫌ってなどいないのだ。
 ファンをながく続け、いつからか、気づいていた。
 これほど自らのアイデアを、多才を誇る彼女には、しかしまったくもってオリジンなどないと云うことを。そして彼女自身もまた、そのことに気づいていることを。
 サザンオールスターズの桑田に共感をおぼえ、大デュマの「たしかにパクッた。しかし私の作品の方が面白い」という言葉を支持し、膨大な読書量と、変幻自在の文体模写を誇る彼女は、クリエーターではなかった。
 彼女は アレンジャーだった。あらゆる作品を自己の中に取り入れ、ある面ではオリジナルに限りなく近く、ある面ではオリジナルを越え、なによりもオリジナルよりも通俗で親しみやすい作品に作り変える。
 天才アレンジャー、それが栗本薫だった。
 永の年月が少しづつ、少しづつ彼女の中に蓄えられた数々の作品への思いを削り取り、いつしか、彼女は「ホモが好き」というほかにはなにも持たない、無力な人間になっていた。それでいながら、いまさらそれを認めることはできなくもなっていた。
 それは、弱いからだ。どうしようもなく弱く、臆病で、寄る辺ないからだ。

 だからこそ、彼女は私の似姿である。

 さよう、その惨めさ、どうしようもなさ、救いのなさ、そのすべてにすら、おれは共感を覚える。彼女がいま、この暖かすぎる部屋を選んでしまった理由が、理屈ではなく本能でわかる。理解できる。彼女は傷つくのが怖いのだ。とてもとても、怖いのだ。
 だから、おれは栗本薫が好きだ。
 要するに、おれは栗本薫が、好きなのだ。

 不思議なことに、そう結論付けたときに、同時に、一つのことがわかった。遠くない将来、おれは栗本薫の小説を読まなくなるだろう。
 それは、確信だった。
 嫌うのではなく、呆れるのでもなく、ただ自然に、気がついたとき、おれは栗本薫を読まなくなっているだろう。
 それがわかった。理屈はよくわからない。なんというのだろう、おれの中には、もう読む必要のないくらいに、栗本薫がある、そんな気がしたのだ。
 いまの栗本薫以上の「栗本薫」が、私の中にあるのだ、と。
 かつて『朝日のあたる家』で透は島津に云った。
「おれが死んだら風になってあんたのところに帰るよ」と。
 キザを通りこして笑いしか浮かばないこのセリフが、好きだ。
 もし明日、栗本薫が死んでも、おれは泣かないだろう。彼女の死を聞いたとき、私の胸には一陣の風が吹き、ただそれだけだろう。
 それで十分だ。

 認めよう。彼女はたどり着いてしまった。
 この自らを傷つけない、暖かすぎる小さな部屋が彼女の彼岸、終着駅だ。ここより永久に、先はない。栗本薫は、ただここにある。おれに許されているのは、それを認めることだけだ。
 おれにとって、栗本薫は親であり、分身であり、神だった。
 そして神は死んだ。本日この日、その棺を開け、確認してしまった。
 神の死せる大地でできることは、新たな神をさがすか。あるいは――
 あるいは自らが神になるか。
 それしかない。

 よかろう、私は私のために私の神になる。

 もはや私が栗本薫にできるのは、いつか彼女が風になるのを待つことだけだ。その日まで、遠くから見守りながら、この彼女が知らぬ彼女の墓標に名を刻もう。一つでも多く、一冊でも多く、彼女の本が私になにを与え、なにを残したか、ここに書き記していこう。
 本日ただいまこの時より、ここは私のつくった彼女の墓標である。貧相で申し訳ないが、仕方があるまい。
 もはやなにも求めない。せめて幸せであれ。
 私は読むともなくあなたの本を読みつづけるだろう。いつか読まなくなる日まで。
 願わくば、多くの人がこの境地に達しますように。



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